牧師室より

ドイツのケルンに行った時、ケーテ・コルヴィッツの美術館に行った。画集で観たことがあったが、本物の迫力に圧倒された。一組の老夫婦が肩を寄せ合って観ていた。奥さんは大粒の涙をボロボロ流していた。貧しい労働者たちや、戦争に怯えている人々の姿に、心を震わせ泣いていた。描かれた苦悩に対し、これほどの近さをもって見入る老夫婦に、深い印象を受けた。

山梨県の友人を訪ねたら、フィリア美術館を案内してくれた。森の中の素敵な美術館で、渡辺禎雄の版画が多く展示されていた。「反戦平和」をコンセプトにしており、その中に、数枚のコルヴィッツの絵があった。著書『ケーテ・コルヴィッツの日記 種子を粉にひくな』が置かれ、求めて帰った。それを読み、彼女の絵と言葉を生み出した背景を納得した。

彼女は第一次大戦で次男のペーターを戦場で失った。その時の日記に「ペーターは臼でひいてはならない種子の実であった。かれ自身は播種であった。わたしは種子粒の種子の捲き手であり、栽培者である」と書いている。同じ名前をつけた孫のペーターがロシア戦線で戦死した。「ハンスが来た。1014日の木曜日に、かれは非常に静かにわたしたちのところに入って来た。それでわたしは知った。孫のペーターが死んだことを。922日にかれは戦死した」と書いている。

 深い愛情が戦争を激しく憎む平和主義者にした。そのために、ヒットラー政権によって、芸術院会員の地位を追われ、アトリエも奪われ、芸術活動は封じられた。

 臨終までの看病をした孫娘ユッタに次の言葉を遺している。「戦争がなくなったとしても、誰かがそれをまた発明するかもしれません。今まで長い間そうやって来たように。しかし、いつかは新しい思想が生まれるでしょう。そして一切の戦争を根絶やしにするでしょう。― このような確信のうちに私は死にます。そのためには、人は非常な努力を払わなければなりません。しかし必ず目的に達します。平和主義を単なる反戦と考えてはなりません。それはひとつの新しい思想、人間を同胞としてみるところの思想なのです」。

 彼女は、戦争を根絶やしにする思想が生まれることを熱望して、重く、悲しい絵を描き続けた。その迫力が人に大きな感動を与えている。