牧師室より

112日(金)に母の10年記念会をした。宝塚市に住む長兄は遠出できない状態なので、宝塚のホテルで行った。長兄81歳、末の私が71歳、その間に、男、女、男と5人兄弟である。兄弟全員が集まるのは、これが最後になるだろうと計画した。姉は一人であったが、男兄弟たちは連れ合いを伴い、9名が集まった。誰も欠けることなく、今日を迎えたことを喜ぶ、久しぶりの再会であった。当然ながら、皆それぞれの年を重ねていた。そして、優しく、思いやり深くなっていた。話は昔の苦労話が中心になった。

我が家は、1947年(昭和22年)に、旧満州の大連から、丸裸で引き揚げてきた。その時、父は45歳であった。両親は、子供たちを育てるためにひたすら働いた。兄弟たちは「とても真似はできない」と言い合った。私たちは成長と共に、高度経済成長に促され、皆都会に出た。順に、川崎製鉄、国鉄、住宅公団、神戸製鋼と固い職についたが、私は、一風変った「牧師」になった。

私は母の思い出を話した。牧師宅に同居していたある日、母から「隆雄、明日はあなたの弟の命日だから、記念会をしてほしい」と言われた。母と親しくしてくださっていた数名の方に来ていただき、讃美歌を歌い、聖書を読み、短い奨励をした。終わった時、母は本当に安堵した顔をしていた。弟は三歳下で、母が路面電車の中で倒れ、死産した。戦争中だったので、名前もなく、遺骨もない。戦後、母は弟について話してくれたことは一度もない。しかし、その子を忘れることはなかった。命日の度に思い起こし、一人心の中で祈っていたのであろう。

この世に生を与えられなかった子供をいつも心に留めていた母に育てられたと、兄弟たちに報告した。