牧師室より

雨宮栄一先生が上梓された『評伝井上良雄 キリストの証人』(以下−『評伝』)を贈ってくださった。

井上先生は、カール・バルトの膨大な著書の翻訳を完成させた。また、日本のキリスト教界の良心として、著作、発言、行動をされ、多くの人々から尊敬されてきた。

私は、他の誰のものよりも、先生の著作、翻訳を多く読んで、学んできた。先生は、信仰とこの世を、別々に捉える二元論的ではなく、キリストの主権の下で一つとする一元論的に捉え、その主張をどこまでも貫かれた。キリスト者になられてからのご活躍は諸々の著作や活動で知り、尊敬してきた。今回『評伝』を読み、改めて、キリストの証人として生きた先生の生涯に感銘を受けた。そして、求道の深さに、心を打たれた。

有力な実業家の庶子として生まれ、孤独な青少年期を過ごしている。京都帝国大学文学部独文科に進まれたが、日本文学に傾倒していく。卒業後、文芸批評を発表し、一躍脚光を浴びるが、評論家として立つつもりはなく、ひたすら、自分の生き方を実存的に問い続ける。芥川龍之介の自死に衝撃を受け、志賀直哉に近づき、共産党のシンパ活動をする。弾圧され、大学教師の職を失う。尊敬する師と同棲していた女性と結婚する。預かっていた幼児を亡くす。そして、時代はファシズムの嵐が吹き荒れてくる。

「無為な、荒廃した日々」を過ごす中から、教会を訪ね、バルトの『われ信ず』を読み、信仰に目を開かれていく。知的で、誠実に生きようとする人には深い罪意識がある。その罪に対し、審きと赦しの中に置かれている罪を告白する時、神から深くまた無限に赦され、贖いの中に包まれていることを知らされる。

キリスト教リアリズムについて下記のように書いている。「それは一口に言えば、人間が本当に人間らしい人間になること、神に創られた者にふさわしい姿となること。懼れなく、自由に、ユーモアをもって、しかも男々しく、今日の一日を生きること。一日の苦労をして一日で足らしめること。今日の一日を真に現在的に生きること。日々の苦労に対して、根本的な楽観をもって、然りと言うこと。世界観や思弁のために生きぬこと。単純に真実を喜び、美を喜ぶものとして生きること」。

神学的には、真に深められた思索と実存から発言されたが、信仰は純粋無垢な終末信仰に立って、上記のようなリアリズムで、キリストの証人として生きられた。