◇牧師室より

まず、下記の文章を紹介したい。

「フクシマを語ることは、とりもなおさず日本を語ることである。この破局と、その後の絶望的推移は、主体性を持った個人が存在せず曖昧に問題を溶解する『天皇制』的集団催眠状態と、『戦争責任』の否認に典型的に象徴される。加害者としての自覚を欠き被害者意識のみに染め上げられた歴史修正主義という まさしく日本の精神風土の必然的帰結にほかならない。東京電力・福島第一原発事故は、『天皇制』と『戦争責任』の問題なのだ。」

これは、山口泉氏の『原子野のバッハ 被曝地・東京の三三〇日』の最後の文章である。山口氏は、ご自分の330日に亘るブログに補説ノートを書き加え、500頁を超える大部の本で上梓している。

山口氏は、内外から得た原発事故に関する膨大な情報を読み解き、そこで展開されている問題を、歯に衣着せぬ言葉で発信している。

事故後、民主党政権はパニックを起こさせまいと、事実を隠蔽し、国民を欺いてきた。独占企業の東京電力は責任回避に奔走し、傲慢な態度は変わっていない。メディアは「安心」を与えようと、政権と東京電力からの情報を流し、事故から目をそらせる番組を放映し続けた。御用学者は権威ぶりながら、いとも簡単に前言を翻し、良心に咎めを感じていない。個々人の名前をあげて厳しく批判している。

私たち素人には、事故現場で何が起こっているのか分からない。専門家も分かっていないのではないか。収束に向かう「工程表」を出したが、信じている人はほとんどいない。燃料棒が棒状であるなら、取り出しも可能だろう。溶解した燃料の取出しには、どれほどの年月がかかり、それまでに起こる犠牲は計り知れない。事態の深刻さは容易に想像できる。米国やフランスの学者たちは、現在も危険な状況にあると警告している。それが事実なのではないか。

山口氏は、偽りの希望を捨て、事実を直視せよと語り、日本人論、日本文化論を展開している。「国に命ぜられるまま、唯唯諾諾とそれに従い、他国の民の命を奪うことも躊躇せず、また従容として自らの死をも受け容れていった、その絶対的な受動性と ― 。他者と似ていることに安堵する一方、他者と違ったことをするのを徹底的に自己規制する、その息苦しいまでに根深い抑圧と。」

アジア太平洋戦争に突き進んでいった状況と原子力政策は似ている。そして、敗戦後と事故後の曖昧さは「天皇制」という無責任な対応と同質である。現れた出来事に対する分析や批判はよく聞くが、その底に流れている人間、文化、歴史観を見定めることが大切ではないか。