◇牧師室より

月刊誌『世界』の7月号から、品川正治氏の「戦後歴程」の連載が始まった。品川氏は、経済同友会終身幹事、国際開発センター会長など、経済界で重要な働きをしながら、平和憲法9条を守ろうと精力的な発言をしている方である。

 第1回は「激戦からの生還」と題して、自由な気風を残していた京都の三高(旧制第三高等学校)時代のことから書きはじめている。学校で、軍人勅諭を暗誦させる行事があった。指名された優秀な親友は「我国の天皇は世々軍隊の統率し給う所にぞある」と荘重な口調で暗誦した。品川氏は息を呑んだ。勅諭の正文は「我国の軍隊は世々天皇の統率し給う所にぞある」である。親友は「天皇」と「軍隊」を入れ替え、全く逆の意味にした。階級の高い査閲官が気づいた。親友は「我国の天皇は世々軍隊に統率され給われたのであります。違いますか? … 天皇の名を借りて軍は一体この国をどこに連れて行こうとしているのですか?」と言った。査閲官は軍刀に手をかけたが、思い留まった。そして、責任を恐れて公開が禁じられた。しかし、事態は深刻であった。親友は退学処分を受けた。学校側は、彼を不正、不忠とも言わず、真の愛国心を擁護し、校長と教頭で責任を取ると決めた。

 生徒総代であった品川氏は、素晴らしい先生と生徒のいる三高が潰されることを恐れた。校長に「私は軍に『嘆願書』を出します。一は、三高の生徒総代として本件の責任を取り、直ちに退学し、陸軍の一兵卒として志願する。一は、必ず最前線に送ってもらいたい」と申し出た。

 そして、中国の激戦地に送られた。八路軍に包囲され、猛攻撃を浴びた。迫撃砲の破片が足に刺さり、激痛が走った。次の砲撃で、意識を失った。九死に一生を得て、敗戦を迎え、俘虜となった。

 収容所で『小李庄』というガリ版刷りの雑誌を出し、品川氏は「終戦− 日本は二度と戦わない ! 」という一文を載せた。権力者たちは「敗戦」を「終戦」と言い換えたが、品川氏は二度と戦争をしない、他国に兵を出さない決意表明として「終戦」と書いた。

 19464月、復員船で帰り、祖国を見て、声をあげて泣いた。着岸する直前に、読み古された新聞が持ち込まれた。そこには日本国憲法が全文収録されていた。大声で読むことを命じられ、9条までを読み終えると、全員が泣いた。亡くなられた戦友は浮かばれ、アジアへの贖罪ができると、突き上げる感動に震えた。

 憲法の意味は、品川氏の体験と主張にあるのではないか。