◇牧師室より

朝日川柳に「天井や壁に看取られ死ぬ悲劇」とあった。絶縁社会の孤独死の問題はしばしば取り上げられている。私は「孤独死」は「自死」ではないかと思っている。

最近は、障害者、高齢者を見守っていた人が倒れ、共に命を失っているケースも多い。「孤立死」という言葉が生まれた。豊かさと強さに価値をおく時代は貧しさと弱さを表すことは恥とされ、「自己責任」という言葉が重く圧しかかる。

ライフラインを切られ、餓死している。まして、白骨化した遺体が発見されたという報道には寒々しい思いに駆られる。プライバシーの保護は回りとの関係を切るものとして作用している。行政も目が行き届いているとは思えない。しかし、私を含め、近所付き合いは挨拶くらいで、希薄であることも確かである。

憲法第25条の「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」空文化している。物の欠乏ではなく、心の欠乏が餓死を作り出している。

寿町を支援している北村慈郎牧師は日本の町が「寿町化」すれば、自死者が減るのではないかと言っていた。港南台は自死者と薬物依存者が多い町だと、精神科医から聞いたことがある。自死は複雑な心理的契機を持っているが、社会的圧力が大きな要因になっている。立派でなくても、強くなくても、互いに受け入れ合っていくような関係を結びたい。

人は皆、誰かに頼らなければ生きられないのであるから「助けてほしい」という自分の弱さを言い表す自由を持ち、それを受容し合う社会基盤を作ることが求められている。

悲しむ人がいなくとも、寂しい「孤立死」を迎えることのないように、最大の思いを寄せることが人間であることの証ではないか。

HH兄は経済的には心配なかったが、家族がなく、病院で看取られ召された。最期に立ち会えなかったことを申し訳ないと思っている。