◇牧師室より◇

 宮城県大船渡市で医院を開業している山浦玄嗣氏が『ケセン語訳新約聖書』を出版した。日本語の聖書は人々に伝わり難いと、ケセン(気仙)地方の方言で四つの福音書を翻訳した。その本が、大きな感動と反響を呼んだ。文藝春秋社から、分かり易いと喜ばれたケセン語訳で得たことを本に書くように勧められ、昨年の12月に『イエスの言葉 ケセン語訳』を上梓した。山浦氏はギリシャ語に堪能で、また、直接経験した3・11の大震災を踏まえての文章には説得力がある。

 聖句から38項目を選び出し、興味深い解説をしている。その中から、「義」と「愛」について紹介したい。「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」という言葉がある。義とは正義、正しさで、人間を感激、興奮させる魔力を持っている。歴史上、義を追い求めた勇ましい話は無数にある。聖書で言う義、正義、公正は「神の御心を行うこと」で、それは、万人が等しくなることである。「義」の具体的な意味は「施し」である。「正義」ならぬ「施し」にありつけず、腹をすかし、喉が渇いている人は、実は「幸いなのだ」。イエスは、その人たちには腹が抜けるくらい食べさせてくださると語っている、と。

 「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」という言葉がある。まず、敵を愛するという要求は無謀であり、とても「はい」とは言えない。そして「愛する」という言葉も、ケセン語にはないし、日本人にはなじまない。「愛する」は「大事にする」という意味である。敵への憎しみは自然な感情で、「愛しなさい」という戒めはとても受け入れられない。上杉謙信は宿敵の武田信玄に塩を送った。「仇であっても大事にしろ!」と語っている、と。

 釜ヶ崎で伝道、司牧している本田哲郎神父も「愛する」を一貫して「大切にする」と訳している。

「愛する」という言葉は、古来の日本語にはなかったが、愛を力説するキリスト教によって 「愛しています」は抵抗なく、使われるようになっているのではないか。