◇牧師室より◇

宮田光雄先生が特別伝道集会の講師に来てくださった時、私が大分県出身であると話したところ、「ペテロ岐部」を知っているかと聞かれた。知りませんと答えたら、笑われてしまった。

母教会の説教応援に行った時、教会員の方がペテロ岐部の出生地で、記念館がある所に連れて行ってくれた。そこで、彼の感動的な生涯を初めて知った。

ぺテロ岐部は、国東半島の先端に位置する現在の国見に1587年に生まれている。キリシタン大名の大友宗麟の感化を受け、豊後(大分県)はキリシタンが多かった。ペテロ岐部の両親も熱心なキリシタンであった。彼は両親の信仰を受け継ぎ、15歳の時、島原にあったセミナリオ(神学校)に入学する。6年後に卒業するが、宣教師たちの使用人でしかなかった。豊臣秀吉は伴天連追放令を出し、キリスト教徒にとっては暗い時代を迎えていた。キリシタン迫害が激しくなり、彼は日本脱出を目論み、マカオに逃れる。そこでも日本人であるために、不本意な生活を強いられる。この時、ローマに行って司祭になる決心をする。インドのゴアに行き、ペルシャのバグダッドまで灼熱の砂漠を歩き通す。そして、日本人としては初めて、主イエスが磔刑にされたエルサレムまで来る。5年歩き続けて、目的のローマにようやくたどり着く。ローマで2年、充実した学びの時を得、司祭に叙階される。ローマは、主イエスを三度まで知らないと否認した使徒ペテロが逆さ十字架で殉教した地である。

ペテロ岐部は殉教を覚悟で日本に帰国し、布教しようと決意する。リスボンから喜望峰を回りインド、マニラ、マカオまで来る。しかし、日本ではキリシタン迫害が激しく、帰国の手立てが得られない。マニラで舟を手に入れ、日本を目指す。嵐に遭って、岩に打ち上げられるが、島の住民に助けられて薩摩の坊津に上陸する。16年ぶりの帰国であった。

九州での布教に危険を感じ、東北に行き、9年間、隠れた布教活動をする。密告されて逮捕され、江戸に送られる。江戸で、汚物を入れた穴に逆さに吊るされる最も残酷な「穴吊るし」で棄教したフェレイラ神父と面会し、コロビを迫られる。ペテロ岐部は「コロビ申さず候」と言って、同じ「穴吊るし」で殉教する。

逆さ十字架で殉教したペテロに倣うことがローマを経験した彼の真っ直ぐな信仰であったのではないか。