◇牧師室より◇

雨宮栄一先生が「評伝 高倉徳太郎」を著わされた。徳太郎は信濃町教会を建て、日本の教会の神学的基礎を築いた牧師・神学者である。彼の深い求道と当時の教会の状況を捉えた、730頁にも及ぶ、重厚な二巻本である。私に贈ってくださり、感銘をもって読んだ。

 19世紀のヨーロッパの神学は自由主義神学と言われ、人間に内在する宗教性を重視し、歴史の進化を楽観する神学であった。20世紀に入り、カール・バルトは人間の罪を鋭く捉え、それを凌駕する神の絶対的な恩寵を説く「危機神学」を展開し、バルト神学が主流になった。

 徳太郎は、バルトをあまり知らなかったが、英国のバルト以前のバルティアンと言われるP・T・フォーサイスに影響を受けている。聖書と格闘しながら人間実存を深く問い、バルトと同じ、恩寵によってのみ生かされる「福音」を見出した。それを「福音的基督教」という名著に著わしている。私も求道時代、この本に大きな慰めと励ましを受けた。

 主イエスの十字架を見つめる時、罪の深淵を見せられるが、圧倒的な贖罪の恵みの事実を知らされる。徳太郎は、この福音の真理を力強く説き明かし、多くの人々の心を捉えた。そして、神学教育に尽力された。

 しかし晩年、うつ病に苦しみ自死された。当時はうつ病があまり知られてなく、適正な治療が受けられなかったようである。病気の苦しみが日記に書き残されている。社会的責任の重さは全く違うが、同じうつ病で苦しんだ私には、その痛みが理解できる。

 ご長男・徹氏も牧師になり、教団の重責を担われたが、うつ病で自死された。私がうつ病で、転地療養のため故郷に帰った時、教会宛に手紙を書いた。その手紙が読まれた礼拝日、たまたま、徹牧師が説教に見えていた。私の手紙を聞いて「秋吉君はいい牧師になる」と言われたと後になって聞いた。同じうつ病の思いが理解されたのだと思う。

 雨宮先生は「福音と文化・信仰と社会」の問題を問うている。福音は所与の恵みで、人間の形成する文化と対立する。徳太郎は「数」でなく、信仰の「質」を徹底的に追求した。信仰者は恩寵の「質」に生かされているが、社会や歴史の「数、量」の中にある。信仰は文化、社会とどう関わるのか。徳太郎が自死しなければ、この問題を展開したであろう。それが聞けないことが残念である。