牧師室よ

 私の家は、道元が始めた曹洞宗の寺の檀家であった。父は宗教には関心がなく、お寺とは疎遠であったが、生活の中は仏教一色であった。私の宗教との出会いは親鸞の「歎異抄」であった。その奥深さに心を奪われ、また、大きな慰めを得た。その後、道元の「正法眼蔵随聞記」を読んだ。道元の凄まじい自己否定の生き方に驚き、圧倒された。

 五木寛之氏と立松和平氏の対談「親鸞と道元」が出版された。帯で「自力の道元 他力の親鸞 この両者は、何が違い、何が、共通しているのか?」と問うている。五木氏は、二人の立場は違うけれども、火花を散らせてスパークする一瞬があるという。「それは究極の救いと悟りを、人間と宇宙の深い闇を照らす光として直感している点である。親鸞は『無碍光』という。道元は『一顆明珠』という。両者はそこに全宇宙と自己とが無限の光にみたされる瞬間を想い描くのだ」と解説している。私には残念ながら分からない。

親鸞と道元は本当に優秀な方で、最高の学問を修めている。権威、権力に背を向け、時代の変化の中で地獄のような苦しみに喘ぐ民衆の救いを求め、ひたすらに悩み、考え、そして説き明かした。世から離れ、しかも民衆の中にある宗教者の原点を見る。同時代に、法然、日蓮、栄西など日本仏教の基礎を築いた人々が輩出している。

 五木氏は、浄土教の教えを次の三つの言い方で表現している。

@ 「泥中にあれど花咲く蓮華かな」、A 「泥中にありて花咲く蓮華かな」、B 「泥中にあれば花咲く蓮華かな」。

@ は「お願いします」という願い、A は「お任せします」という依存、B は「ありがとうございました」という感謝である。法然、親鸞、蓮如は B の立場に立っているという。

 また、立松氏は「ブッダが最後に獲得したのは、全肯定の目だと思います。一切、否定するものはないっていう、全肯定の目」と語っている。

 「泥の中でも咲かせてもらっている喜びを感謝する」という大いなる肯定に宗教の持つ意味と力があるのではないか。

自分自身が、また他人が私を否定しようとも、神は、主イエスの十字架において、私の生(隣人の生を含む)を絶対的に是認してくださっている。これが私の聖書から受けた福音である。