◇牧師室よ

 宗教社会学者、アメリカ研究者の堀内一史氏が「アメリカと宗教 保守化と政治化のゆくえ」を上梓している。アメリカの政治は宗教(主にプロテスタント、カトリック、ユダヤ教)と深く関わっていることは知られている。堀内氏は、この問題を歴史的に、また種々の出来事を通してコンパクトにまとめて著している。アメリカの政治は宗教右派と言われる原理主義者と宗教左派のリベラル派との戦いの中で動いている。

 その歴史についての議論はできないが、原理主義について、私の感想を書きたい。原理主義者は、まず聖書の無謬説に立つ。聖書の言葉は一語一句間違いのない神の言葉であると信じている。しかし、これは受け入れられない。聖書を素直に読むと、矛盾だらけで、全てをそのまま信じるということはあり得ない。聖書も人間が書いた書物であるから、書いた人は当然、歴史状況の中で時代に制約されている。

 教会は聖書を「神の言葉」として上から押しつけて教えていた。それは今や通用しない。歴史的、批判的に読んで、書いた人の思いを汲み取る読み方をしなければならない。その読み方から抽象的ではなく、本当に生きた言葉が伝わってくる。

 次に原理主義者は人間の救いを下記のように説く。人は罪深い、この罪を悔い改めて赦しをいただき、生まれ変わる、その信仰において終わりの日に神からの全き救いに与る。この信仰に間違いはない。聖書はそのように説いている。問題は、その信仰を持つ者のみが正しく、持たない者は永遠の刑罰を受けると考えることである。そして、刑罰を受ける者たちを蔑み、切り捨てても良いと言う。信仰において正と邪をきっちり判別する。その捉え方が争いを生む。原理主義者に後押しされた政権は常に戦いを生み出している。

自分を正当化したり、奢るために信仰が与えられたのではない。信、不信を越えて、全ての人が神の愛に包まれていることを示したのが主イエスの福音である。