牧師室よ

 牧師から「キリスト教を知りたいのなら聖書を読みなさい」と言われ高校三年生の時に、初めて聖書を読んだ。私にとって、聖書は他の本と同じ、一冊の本であった。福音書はイエスという人のドラマであった。誕生の記述は当然、歴史的事実ではなく、創作された神話的表現として読んだ。ガリラヤでの宣教活動からイエスのドラマが始まる。そのドラマは、苦しみ悩む者を支え、生かす凄まじい愛である。ところが、時の宗教的権力者は、イエスの愛が目障りで、自分たちの立場が危うくなると恐れ、強引に十字架刑へと追い込んだ。ルカによる福音書は、十字架の上でイエスが「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈ったと書いている。私は、この祈りに強い衝撃を受けた。理不尽に自分を殺す者のために赦しの祈りをする。こんなことがあり得るのか。イエスという人は一体どんな人なのか。それが、イエスへの真剣な求道となった。

 結論から言えば、こんなに醜い私も、イエスの赦しの祈りの中に置かれていることを知った時、イエスは主・キリストとなり、洗礼を受けてクリスチャンになろうと心を決めた。

 現在用いている新共同訳聖書は、この祈りにカッコがつけられている。カッコは、最近の進んだ聖書学から、主イエスご自身の言葉ではなく、著者ルカが主イエスの口に乗せた言葉であることを示し、ルカの十字架信仰を表している。

 ルカは、最初の殉教者ステファノが「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と祈って眠りについたと伝えている。主イエスは「敵を愛し、…… あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」と教えている。主イエスは赦しの愛を生き、その愛の究極が十字架にあると、ルカは信じ、主イエスの口に赦しの祈りを語らせたのである。

 キリスト教の信仰は、主イエスの受けた苦難と死、そこで祈られた赦しに根源を持っている。人は本当に罪深い。その罪が赦されていることを信じる時、神から「よし」とされている是認を聞き、立ち上がることができる。私は、この福音にすがって生きてきた。そして、福音は全ての人の是認であるから「共に生きよ」という広がりを持つ。