牧師室よ

 今年の夏は記録的な暑さだそうで9月中旬になってやっとしのぎ易くなった。涼しい秋の到来が待たれる。

この夏には、病気の方のお見舞いが多かった。暑い中、病気との戦いは容易ではない。病気は体が病むことであるが、心も滅入り傷つく。

長野県の篠ノ井教会の山本将信牧師と週報を送り合っている。米国のある病院の玄関に掲げられている作者不詳の詩「病者の祈り」を週報に掲載していた。紹介したい。

病者の祈り

「大事をなそうとして、力を与えて欲しいと神に求めたのに、慎み深く従順であるようにと弱さを授かった。

より偉大なことができるように、健康を求めたのに、より良きことができるようにと、病弱を与えられた。

幸せになろうとして、富を求めたのに、賢明であるようにと、貧困を授かった。

世の人の賞賛を得ようとして、力を求めたのに、神の前にひざまずくようにと、弱さを授かった。

人生を享楽しようと、あらゆる快楽を求めたのに、すべてのことを喜べるようにと、生命を授かった。

求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞きとどけられた。

神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた。

私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。」

 詩人は、求めた力、健康、富、賞賛、享楽は得られなかったが、授かった弱さ、貧しさを受け入れ、神の豊かな祝福の中にあると喜んでいる。

私は、詩人のような野心や野望を持つことはなかった。納得できることをしたいと願ってきた。しかし、挫折多く、病気もした。社会党の浅沼稲次郎氏が刺殺された日に盲腸の手術を受けた。牧師になってすぐ、うつ病になり、入院、転地療養など、5〜6年は苦しんだ。お陰で、不安や恐れに関して少しは深く理解できると思う。3年前、食道癌になった。癌の宣告を受けた人は、自分の死を考えるそうだが、私も死をより身近に考えた。初期癌であったので、内視鏡手術で幸いにも全快できた。うつ病と癌を乗り越えた経験は同じ病いの人に役立てると思っている。

信仰は、マイナス要因をプラス要因に逆転させることである。パウロは、主イエスの十字架の死から復活の命への転換を知らされ、「喜んで自分の弱さを誇り、…わたしは弱いときにこそ強い」と語っている。