牧師室よ

 上郷家庭集会は「ローマの信徒への手紙」を学んでいる。ローマ書はパウロが信仰体系を組織的に論述し、キリスト教神学の基盤となった最も重要な書である。そのローマ書の核心は「信仰義認」という神学的用語で表現される。信仰義認とは @ 「イエス・キリストへの信仰によって義とされる」という言葉で表されている。「律法」(良い行い)ではなく、イエス・キリストの十字架と復活を信じる「信仰」によって神に義(よしと是認)とされる。その内実は「あるがままのあなたを神は無限、無条件に受け入れてくださる」という生の絶対的是認の福音である。教会は、この福音をひたすら伝道してきた。それは「あなたは罪人です。悔い改めてイエス・キリストを信じなさい。そうすれば、罪赦され、神に義とされます」という伝道ともなった。この伝道では「信仰」が救いのための「条件、功績」となり、信じない者は不義の下にあり、救われないということになる。信じる者と信じない者がはっきりと二分されていく。しかし、この信仰理解が信仰者を増やす伝道への情熱を高めてきたことは確かである。

 ギリシャ語の「信仰」という言葉は「真実」とも訳すことができる。その訳にすると A 「イエス・キリストの真実によって義とされる」と訳される。この訳を執ると、イエス・キリストの神への真実を貫かれた十字架と復活の事実によって、全ての人が罪赦され、義とされ、信じる者と信じない者の区別はなく、既に救われているという理解になる。

 上郷家庭集会で @ 「イエス・キリストへの信仰によって義とされる」と A 「イエス・キリストの真実によって義とされる」はどちらが福音的であるかが話題になった。集っている人たちの連れ合いは未信者の方が多い。未信者である連れ合いも、神の赦し、祝福の下にあると信じるから、皆さんが A の理解が望ましいと賛同された。

既に赦され、義とされているなら、何のために伝道するのかという疑問が残る。それは、神に義とされていることを知った時、人生を肯定的に受け入れ、積極的に生きようと励まされる。その喜びを共有するために伝道するのであると了解し合った。

 今日、分裂と争いに満ちている社会の中で、人を義と不義に二分しない A の福音理解に立つ時、教会は「共にある」和解の務めが果たせるのではないか。