◇牧師室より◇
私は1941年4月に旧満州の大連市で生まれた。そして1947年2月、家族7人で引き揚げてきた。6歳になる頃まで大連にいたので、色々なことを覚えている。住んでいたアパートの間取り、近所の通り、連れていってもらった神社や海、そして、寒い冬の大きなツララ、かくれんぼをしていても、飛び出して見た「花電車」、芳しいアカシアの香りなど。更に、敗戦を機に生活環境ががらりと変わったこと、「コウリャン」ばかりの食事であったこと、ソ連兵が土足のまま上がりこんで「時計を出せ」と強盗に来たこと、もちろん、帰国時の困難なども記憶している。
父は満州鉄道に勤める一介のサラリーマンであった。力を奢る豪勢な生活をしていた訳ではない。しかし、中国侵略に加担した家族であったことには間違いない。大連を懐かしんで訪ねることに抵抗があったが、生まれ育った所を見てみたいという思いもあった。
ある日の新聞で「3泊4日の大連旅行、29,800円」という広告を見た。値段に引かれて行く気になって、妻と出かけた。参加者65名、二組に分けた大ツアー団であった。
アカシアが満開で、まず、淡い香りが懐かしかった。有名な公園や海水浴場の記憶は定かでないが、路面電車は、当時と全く同じで、運転手のしぐさを興味津々と見入った記憶が蘇り、ゴトンゴトンの乗り心地も確認できた。生まれ育ったアパートは学校の隣にあった。礼拝に来ているDさん(中国人)から、学校は今もあるから、学校を目標にして捜しなさいと言われた。自由行動の時に、ようやく捜し当てることができた。アパートは壊されて、新しい建物を建築していた。周りをグルグル歩き回ったが、昔の面影は全くなかった。
大連市内の諸々の観光、日露戦争に絡む二百三高地や乃木大将とロシアのステッセル将軍の会見場など、昔を懐かしむ観光が多く組まれていたので、年配の参加者が多かった。その方々と思い出を語り合い、色々と教えてもらった。ツアー客は何か不満があると「なにしろ『ニッキュッパ』ですから」と言っていた。しかし、天気にも恵まれ、思い図っていた全てが満たされたので私は大いに満足した。
私は時々腰痛が起こる。ところが、大連滞在中の4日間は全く痛みが起こらなかった。幼い頃、吸った空気が私を若くしたのであろうか。一昨年、同窓会で九州に帰った時、そして今回、二回目のセンチメンタルジャーニーになった。