◇牧師室より◇
佐藤優氏は、私が読んでいる三冊の雑誌に連載を書いている。「週刊 金曜日」には「佐藤優の歴史人物対談」を連載している。その N は「高橋和巳と語る」であった。「あなたは、大学教員でありながら全共闘運動に積極的に加わりました。その理由を教えて下さい」という問いに対し、佐藤氏は高橋和巳に成り代わって、下記のように答えている。「私は全共闘運動に参加した学生たちが、大学を卒業してエリートになるという可能性を捨てて、人間存在の根底を見つめ、自己解体によって新たな人間に生まれ変わろうとしていることに共鳴しました。特に全共闘運動に参加した学生たちは、自分の人生の問題として政治を考えました。」
あの頃、高橋和巳と同じような視点で、全共闘運動に賛同する牧師たちが多かった。私もしんがりに連なる一人であった。主イエスの「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」というみ言葉に通じるものがあったからである。
更に、佐藤氏は自分の言葉で、高橋和巳の思想を展開している。「団塊の世代」と重なる全共闘世代は数が多かったため競争を余儀なくされた。彼らが社会の指導的立場にいる時、近代化を完成する「新自由主義」が蔓延した。全共闘運動は近代を日本に土着化させる試みであったので、彼らが日本社会を新自由主義的に転換したという見方は正しいと思う。しかしそれでは、道の半ばであると、下記のように主張している。「むしろ、近代化を徹底的に推し進めて、われわれ一人ひとりが孤立無援の状況を作りだし、自立した個となる必要があります。この自立した個が自覚的に新しい共同体を作っていくことで、人間の連帯性を回復することができると思います。」
人間存在の根底を見つめ、自己解体によって新たに自立した個が生まれる。その自立した個が自覚的な共同体を作る中で人間の真の連帯性を回復することができるという。
この連帯は神の前に立つ自立した個の交わりで形作る教会の姿である。ところが、最近の教団の動きは個を埋没させ、権威、伝統を押したてて、数の力で排除する政治主義に傾いていることが、何とも悲しい。