牧師室より

柳田邦男氏の「新・がん50人の勇気」を、私が経験したことと重ね合わせ、感慨深く読んだ。「新」1981年に刊行された「ガン50人の勇気」の続編という位置づけである。がんで亡くなられた60余名の死と向き合ったドラマを本人が残した著作を読み、また家族、医者へのインタビューなどを踏まえ、深い余韻を持って描いている。描かれた60余名は知性的にも感性的にも優れたものを持って日本文化をリードした知名人ばかりである。自分の死を受容していった一人ひとりの思いと状況に、柳田氏は心を寄せ、その人への深い愛情と敬意を持って、著わしている。柳田氏の「人に対する優しさ」はご子息を自死で亡くされた悲しみと関連があるのではないかと思う。

人は誰も死に逝くという事実から逃れられない。そしてまた、誰も死を歓迎すべきものとは考えていない。高齢に達し、やるべきことをなし、平安のうちに死を迎える人もいる。しかし、死は人生を途中で断ち切られることであるから、無念さ、悲しさ、悔しさが付きまとう。その死の受容は人生にとって大きな、最大とも言える課題となる。

私は、70名くらいの方々の葬式をしている。死と向き合っている人と直接、間接に関わってきた。様々な死があった。そして、どの死も素晴らしいメッセージを残してくれた。そのメッセージに支えられて今の私があると思うほどである。死は本人にとっても、家族、友人にとっても耐え難い悲しみである。しかし、死は人生の終わりではなく、人生における一つの通過点であり、その通過点の向こうには神の確かな命がある。死と向き合い、召されて逝った人々から有限を超えた永遠を示されてきた。それゆえに「今」を精一杯生きようと思う。

近年、死に対する考え方が大きく変わってきた。かつては、死は忌むべきタブーであった。しかし今は、共有するテーマとして身近に扱うようになった。E・キューブラー・ロス博士の「死ぬ瞬間」やアルフォンス・デーケン先生の「死生学」が知られてきた影響であろう。

私は常々、本人にがんの事実を告げ、家族と共にがんと向き合うことを勧めてきた。早期のがんは完治が可能となっている。治療が適わず、召されたとしても、死は決してタブーとすべき「邪悪や汚れ」ではない。永遠の命への入口である。主イエスの復活がその保証であると私は信じている。