牧師室より

H兄から、日野原重明先生が著わした「メメント・モリ 死を見つめ、今を生きる」を貸していただき、興味深く読んだ。先生はもう百歳にもなろうというのに、医療を中心に、考えられないような大活躍をしておられる。「メメント・モリ」は過去10年間の死に関する諸々の講演をテーマ別に分かり易くまとめている。私自身がもやもやしていたことを整理することができ感謝である。先生は「静かな心で、まわりの人に感謝して生涯を終えることができれば、その人は望ましい生き方と最高の死に方をされた人といえるでしょう」と書いている。この言葉に触発されて、心に残る素晴らしい死を迎えた三人の方を紹介したい。

私の父80歳で胃癌で亡くなった。開腹したけれども、手遅れで、そのまま閉じる状態であった。手術から目覚めた時、家族全員が揃っていたので、死の時が来たと思ったらしい。しかし、輝くような笑顔をして「俺みたいに幸せな男はいない」と言った。父は学歴もなく、満州に渡り苦労をした。敗戦後引き揚げ、体を酷使して家族を守るためだけに働き続けた。何の信仰も持たず、私には苦労しつくした人生のように思えた。その父は自分の生涯を喜び、死を受け入れて見事に逝った。父の死を想う度に感謝が溢れる。

妻の父は牧師であった。尿管癌であったが、最後は肺炎で召された。回復が不可能と知らされたので、私は妻に「牧師は言葉で生きているから、お父さん、言いたいことはありませんかと聞きなさい」と勧めた。妻から言葉を促されて、岳父は最期を悟ったらしい。人工呼吸器をつけていたので、サインペンで多くの言葉を書き残した。信仰を与えられたこと、牧師として十分働くことができたこと、家族への感謝など、喜びに満ちた素晴らしい言葉を綴られた。「主にありてhappiness(幸福)」と書いて天国へ凱旋した。

神学校時代から最も親しい友人が大腸癌で49歳で天に帰った。最後に見舞った時、物が言えない状態であった。ベッドの側で「僕が死ぬ時、君に来てもらえないね」と言ったら、サインペンで震える字で「天国のドアマン」と書いてくれた。私の臨終の時、天国のドアを開けて迎えてくれるという。死を前にして、このユーモアと彼の思いやりは私にとって最高の宝である。

しかし、死を受け入れられず、苦しみ悶えて召されたとしても、神はその死をも祝福を持って受け止めてくださると私は確信している。