牧師室よ

70歳の元教師が「教師育てるのはよい職場環境」と新聞に投稿していた。下記のような主張である。教師養成に6年制を導入しようとしているが、どの職種でも不適格者はいるもので、養成期間を2年延長しても教師の質が飛躍的に向上するとは思えない。むしろ、学級定員を減らすことによって、生み出された余裕の時間に生徒たちと接触し、また先輩教師と触れ合うことができる。現場での生きた関わりを通して学んでいくのであるから、働き易い職場環境をつくることが先決ではないか、と。

牧師の場合でも、よい職場環境が大切である。私はまず、神学校を卒業して牧師になった後の研修機関が少ないことが問題であると思う。新米の牧師と老練の牧師が共に学び合う研修機関があって、自分自身を見つめ、また高める時と場を与えられると心強いし、必須のことではないか。一人でも勉強はするが、一人だと孤立してしまう。孤立して潰されていく牧師も少なくない。

赴任した教会がどんな教会で、誰と出会い、どんな体験をしたかによって、その牧師の福音理解と宣教姿勢が決められていくように思う。

地方の小さな教会を経験することは大きな学びになる。小さな教会の信徒は奉仕も献金も精一杯に頑張っている。この姿を見せられることによって自分が砕かれていく。謙遜とは口先の言葉ではなく、全力を尽くして励むことであると知らされる。私は小さな教会に遣わされ、生活的には少なからず苦労したけれども、教会員に支えられ愛されて、楽しい伝道をさせていただいた。

遣わされた教会で生きることに苦悩している人々と出会い、彼らと喜びと悲しみを分かち合うことは主イエスが現してくださった福音が何であったのかを教えてくれる。先日、親しい友と会って、仲間たちのことを話し合った。問題を鋭く捕らえ、誠実に立ち向かっている友は差別されて苦しむ人々との交わりを深く体験している。寄せ場、水俣、筑豊と関わって「低きに立つ神」を著わした6人の牧師たちの謙虚で、誠実な宣教姿勢には深く感動した。

「牧師を育てるのはよい教会環境」である。自分を相対化していける研修の場が与えられ、暖かい生きた言葉を交わしながら、主イエスに向かって共に歩もうとする教会の環境が牧師を成長させる。教団は実働の牧師が不足し、無牧の教会が多い。よい環境を整えて、牧師を育てることが求められている。