牧師室より

大阪の寄せ場「釜ヶ崎」で司牧している本田哲郎神父の講演会でも聞いたし、北村慈郎牧師が著わした「自立と共生の場としての教会」の書評にも書いているので、紹介したい。

本田神父は未受洗者にも聖餐に与ることを認める宣教をしている。教区長の司教から「会って話をしたい」という電話を受け「伺います」と返事をしたところ「いや、私が行く」と釜ヶ崎まで来られた。案の定、聖餐の話になった。神父は「貧しく小さくされた人々を排除できない」といういつもの持論を語った。司教はよく聞いてくれたが、教会法のきまりと、秘蹟としての聖餐は受洗者が参加できるという立場は変わらなかった。しかし最後に「教会が変わるのが先ですね」とひとこと言い、従来通りの聖餐を認めてくれたという。

カトリックの礼拝はミサといい、聖餐が中心である。その上、与るパンは神父の聖別の祈りによって、ただのパンではなく、キリストの体に「化体」したものである。そのカトリック教会の懐の深さに感嘆した。そして、呼びつけるのではなく、出向いて聞く度量の広さに敬服した。

それに引き換え、教団執行部のある牧師たちの偏狭さには閉口する。この問題は度量や偏狭などの感情論ではなく、神学的な問題である。米国メソジスト教会などでは未受洗者も聖餐に与ることを認めることが神学的にも宣教論的にも福音にふさわしいとして、実施している。世界の教会で議論されていることを無視して、教会の伝統、教憲・教規だからと排除する姿勢は福音的ではない。

現在、教団や教区では聖餐のあり方が盛んに議論されている。そこで見えるようになってきたことは未受洗者に聖餐に与らせない、いわゆる、クローズド派は事柄に対し閉鎖的、排除的であるということである。それは、教会と制度を守ろうとするからである。「聖なる公同の教会を信ず」という告白は人間の作った制度を守ることではなく、主イエスのみ言葉を信じ、聖霊の導きを祈る中で「キリストの教会」が建てられていくことを信じるという告白である。

また、クローズド派は洗礼を受けることは神との契約をすることで、未受洗者とは違うと重要視する。しかし聖書は、人間は神と契約できない不確かな者であるから、神は人間に契約を求めず、一方的に受け入れた無償の契約であると告げている。

主イエスが最後の晩餐で命(体と血)をかけて、あなた方を愛すると語られた時、その愛を受ける条件などを求めたであろうか。要は主イエスの思いを問うことである。