牧師室より

東戸塚教会と私たちの教会は共同墓地を持っている。天国の入り口を一緒にしているが、生きている今も知り合い仲良くしたいと願っていた。一昨年、私は招かれて説教をした。今年は、藤田穣牧師をお招きして礼拝を守った。近隣教会と親しい交わりを持つことは嬉しいことだ。

藤田牧師は、マタイ福音書625節から34節までのみ言葉から「あるがままに…」と題して語られた。空の鳥、野の花は無為に、自然に、あるがままに生き、また咲いている。彼らも苦しみはあるが、神に委ねて豊かな生命を表している姿に学ぶところが多い。一方、人間は思い悩み、心を配り、そのためストレスを受け、うつ病になったりする。

人間の生き方には 所有することを求める生き方と自然にあることをよしとする生き方がある。主イエスは語られる。神の下で「あるがままに…」の生へと転換しなさい。そして第一に、神の国(神の支配)と神の義(神の喜び)を求めなさい。そうすれば生きるに必要なものは与えられる。「その苦労はその日だけで十分である」と。

ところが、私たちは思い煩いから解き放たれないのが現実であろう。その私たちに主イエスは「重荷を負う者はわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と言われる。主イエスは私たちの隣りで同じ重荷を負ってくださっている。主イエスの招きの言葉を信じ、神の下に立ち返ろう。そこに「あるがままに…」の生が約束される。

藤田牧師は「あるがままに…」の

「…」は野放図な「あるがままに」ではなく、「御心のままに」に繋がると語られた。それは、神の国と神の義を求めるということであろう。