牧師室より

「マーティン・ルーサー・キング牧師研修会」で小野経男先生と親しくお話をする機会を得た。先生は現在、名古屋大学名誉教授、岐阜済美学院理事をしておられる。言語学者で、ハーバード大学に留学した時、チョムスキーの講義を受けた。他の教授と違い威厳があったそうである。チョムスキーは言語学に革命的な転換をもたらした学者と言われているが、私はそのことについては全く分からない。ただ、米国政府の政策に対する厳しい批判には多くを教えられている。

小野先生は最近、「遠くて近い道 −聖書と人生」を上梓された。豊かな経験、柔らかな精神、深い知性、そして確かな信仰で綴られた文章に感銘を受けた。

言語に関する二つのことを紹介し、私の感想も記したい。言語学では「均衡述語」というAとBが同一化する現象を表す言葉がある。「結婚する」、「衝突する」などで、AとBが結婚すれば、BもAと結婚していることになる。衝突するも同じである。坂部恵という哲学者は五感のうち、触覚以外は目的対象を表す助詞「を」を取るが、触覚だけは「を」をとらないと言っている。視覚では「空を見る」、聴覚では「音楽を聴く」、嗅覚では「沢庵を嗅ぐ」、味覚では「葡萄を味わう」という。触覚では「石像を触れる」は言わず、「石像に触れる」という。前の四覚は行為の主体が対象の客体を意識して区別しているのに対し、触覚だけは区別なく、同化している。「握手」、「ハグ」、スポーツ選手などがする「ハイタッチ」は異なる人間が同じ感覚を分かち合う喜びの表現である。小野先生は人間社会をスムーズにするためには、このタッチ感覚が大切であると言われる。聖書には、主イエスに触れていただいて癒された人の奇跡、また、物理的・身体的接触はなくても、精神的・霊的共感を生み出して救われている奇跡も多く記されている。「均衡述語」の意味と広がりについて興味深く思った。

英語で「理解する」は「understand」と書く。これは「under−下」と「stand−立つ」の合成語である。人を理解するためには、相手より下に立つことによって可能になると小野先生は言葉から解説している。これは、釜ガ崎で司牧している本田哲郎神父も強調していた。確かに人の上に立って見下ろしていたら、相手を理解することはできないだろう。

 人間関係が希薄になって、人を理解しようとする力が落ちているのではないか。最近、乖離と分断と排除の声がやたらに響いてくる。下に立って、相手を「understand」し、「均衡述語」で共感し合う柔軟性を持ちたいと示された。