牧師室より

主イエスはガリラヤ湖畔で「神の国」の宣教を始められた。その時、12弟子を選び、宣教の任務を託された。弟子たちはまず @「神の国は近づいた」と神は生きて働き、あなたがたを守り、祝福してくださっていると語った。A 病人を癒し、死者を生き返らせ、重い皮膚病の人を治した。B 汚れた霊に取りつかれている人から悪霊を追い出した。これは正気を失っている人を正気に戻したという癒しである。A の病人たちとB の汚れた霊に取りつかれた人々は神の罰を受けて罪人とされ、共同体から排除されていた。彼らの病気のいやし、正気への回復は共同体への復帰を意味していた。主イエスの現した「神の国」は神の祝福の下で、人間として共に生きなさいという人間回復の福音であった。

主イエスは12弟子たちを、この宣教に遣わすに際し、諸注意を与えている。@ 異邦人の道に行かず、イスラエルの失われた羊のところに行きなさい。これはまず、身内の者に福音を知らせなさいということである。A ただで与えられたのだから、ただで与えなさい。神の恵みを売り物にしてはならないという意味であろう。B 自分を守るものを一切持たず、素手で宣教をしなさい。神ご自身が宣教を導かれる、そして、働き人は必ず支えられるという励ましである。C 町や村に入ったら、一軒の家を宿とするが、その宿に宣教が終わるまで、とどまり続けなさい。D 一軒一軒を訪ね「平和」を祈りなさい。祈りにふさわしい家は平和がその家に与えられる。ふさわしくない家の場合、がっかりするだろうが、気落ちすることはない、その平和はあなたがたのところに返ってくる。何と優しい励ましであろうかと思う。E あなたがたを迎えいれず、語る言葉に全く耳を傾けようともしない者には足の埃を払い落とし、毅然とした拒否を示しなさい。

新共同訳のマタイ福音書は、一軒一軒訪ねた時「平和があるように」と挨拶しなさいと訳している。ギリシャ語聖書にはこの言葉はないが、文脈からこの挨拶であったと推測され、付け加えられている。私は「平和があるように」という挨拶は素晴らしいと思う。あなたは神の平和に包まれ、あなた自身であってよいという是認の祈りである。

福音書に記されている主イエスは明らかに権威主義と儀式主義を否定している。ファリサイ派の権威主義を偽善と見なし、サドカイ派の儀式主義をご自身の十字架によって無力とされた。権威主義と儀式主義は自分で考えること、問うことを奪い、無意味に服従し、自分が自分でなくなるようにさせる。「平和があるように」という挨拶は、あなたは神の平和をいただき、あなた自身でありなさいという大いなる肯定の福音である。ガリラヤにおける主イエスの福音は、神によって生きることを是認される喜びであった。