牧師室より

私は「港南台」と「港南区」の二つの「9条の会」に世話人として加わっている。それぞれの会は月に一度、世話人会を持ち、学びを深める討論や、諸集会を企画し、それを実行している。先日「港南台9条の会」で私はミニトークを求められ、下記のような問題提起をした。

紀元前8世紀、預言者イザヤは「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」と語った。武器を農機具に変え、国と国とが戦争しない絶対平和を語った言葉は、国連の建物の壁に刻まれ、人々の憧れ、希望の言葉としてとして受け止められている。当時の古代社会は、むき出しの暴力が吹き荒れていたので、夢の言葉でしかなかった。日本国憲法9条は戦力を放棄し、国の交戦権も認めないと謳っている。これも終末論的希望、絵に描いた餅であり、現実の厳しい国際関係では通用しないと見なされた。そのためにか、9条は「骨抜き」状態にされてきた。

ところが今日、9条は絵に描いた餅ではなく、リアリティ(現実味)を持った平和概念になってきている。アジア・太平洋戦争後も、様々な戦争を繰り返してきた。それらの戦争では、どの国も利益を享受することはできず、勝者も敗者もない。米国はベトナムから、ソ連はアフガニスタンから撤退せざるを得なかった。軍事大国といえども、勝利できずに泥沼化する今日の戦争はいたずらな犠牲と莫大な損失だけである。武力による問題解決は見出し得ないことを知らされている。また、権力による戦争情報操作を超えて、悲惨な実態を報道する種々のメディアの働きは強い反戦意識を生み出している。

憲法前文では「専制と隷従、圧迫と偏狭」、「恐怖と欠乏」が平和を壊すと謳っている。差別や抑圧の痛みに共感し、苦悩を共有することが平和を実現していく。9条は希望であり、かつ現実となってきている。