牧師室より

「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」という言葉はエルサレム神殿の権威ある宗教の専門家(ファリサイ派、サドカイ派)たちが主イエスを不要として十字架で葬り去ったが、殺された主イエスから新しいキリストの教会が建ったという比喩である。専門家(プロ)も見誤り、間違うということで、確かにそういうことはある。

最近、色々の分野において、プロと言われる人々が意地と誇りを失っているのではないか。政治報道番組では、面白おかしく話を進められるいわば芸人のような俳優やタレントが司会をしたり、発言しているケースが多い。政治家として経験と実践を積み上げたプロの高く、豊かな見識や、ジャーナリストとして心血を注ぎ込んだ人々の本質を解き明かす議論を見聞きする機会が少ない。テレビによる国民の「一億総白痴化」と言われたが、考えない日本人になってしまうのではないか。私は俳優やタレントや芸人の働きを大いに楽しんでいる。しかし、社会の根底を支え、人間の生死に関わるような大切な問題ではやはり、プロと言われる方々の深い見識と歴史を見通した論議を聞きたい。

スポーツにおいても、甲子園で活躍した高校生が、次の年プロ野球で大活躍しているのを見る。天才的な人もいるのであろうが、何年も積み上げてきたプロの意地と誇りはないのだろうか。ゴルフにいたっては、現役の高校生が優勝している。私は相撲を好きになれない。それは、健康な体とは思えない異常な体型に変えることが不健全だと思うからである。しかし、相撲は高校生・大学生横綱も十両に歯が立たないほど、実力に違いがある。プロは自らを鍛え上げ、アマチュアが及ばない力量があっていい。

聖書が警告するように、専門家も見誤り、間違うこともある。しかし、プロとして培った知識と経験はアマチュアとは違う深みがあるはずである。専門家が意地と誇りを持って語り、それが世の中で生かされていく時、社会は落ち着いたものになってくるのではないか。