牧師室より

教会創立29周年記念礼拝を、横浜磯子教会の中村清牧師をお招きして捧げた。説教はヨハネ福音書19章の主イエスがローマの総督ピラトから尋問される場面から話された。人々(エルサレム神殿当局)はイエスを何としても葬り去りたいと必死であった。ピラトは「ユダヤ人の王」とされているイエスに何の罪も見出せない。過越祭の慣例になっている釈放の恩赦をイエスに与えようと誘う。しかし人々は、ローマ皇帝支配に反抗して捕らえられたバラバの釈放を求め、あくまでイエスの十字架刑を要求する。ピラトはイエスを鞭打ち、侮辱を加えるが、抵抗しない弱々しい姿を見せて「見よ、この男だ」と十字架刑にする必要がないと迫る。人々は「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」とまで言って、イエスの十字架刑を要求する。この場面には、律法を犯したイエスを亡き者にしたい人々の思い、そして、弱いイエスなどどうでもいいではないかと見下すピラトの視点がある。

しかし、聖書は「見よ、この人を」と十字架で死を遂げた主イエスを凝視することを勧める。それは「この人」にこそ赦しと和解をもたらす愛の原理(福音)が現されているからである。横浜港南台教会は「この人」を見続けて成長してきたと信じる。十字架の福音に深く聞き入り、そして「この人」を証し(発信)する教会でありたいと結ばれた。

午後は、中村牧師から「聖餐について」の講演を聞き、教会全体研修会を持った。現在、教団では未受洗者が聖餐に与ることは是か非かという議論が激しく戦わされている。私は性急に是非を議論する前に、聖餐の意味と働きに関して深い理解が必要ではないかと思っている。

中村牧師は、まず「聖礼典(洗礼と聖餐)」の重要性を語り、従来の「洗礼から聖餐へ」というご自分の立場で話された。聖餐制定の言葉の中で、聖餐は「新しい契約」と位置づけられている。契約は創世記、出エジプト記、エレミヤ書など、旧約聖書を貫いている大切な思想である。その契約は「動物の血、命」を用いての重大な約束事である。

主イエスはご自分の命を十字架にかけて、罪の赦し(神との和解)という新しい契約を実現、成就してくださった。この契約には責任的な応答が求められ、応答のない契約は成立しない。そして、責任的な応答が洗礼であり、洗礼を受けた者が聖餐に与ることができると語られた。

私は「洗礼から聖餐へ」を主張する人々は信仰を誠実に捉え、教会の権威と制度を守ろうとしている中村牧師のような「まじめ派」だと思っている。「聖餐から洗礼へ」もあり得ると主張する人々は主イエスの思いを問い、また無限の赦しという福音の本質から未受洗者でも与りたいならば、その意志を教会は拒否すべきではないと考えているようだ。