牧師室より

敬和学園大学の山田耕太教授が「新約聖書の礼拝 シナゴーグから教会へ」を著わしている。旧約聖書時代のシナゴーグでの礼拝から新約聖書時代のキリスト教の礼拝における「信仰告白、洗礼、聖餐、職制」について簡潔に紹介している。

終章に「新約聖書の礼拝の意義」と題して、基本的な礼拝の意味を書いている。礼拝を意味する言葉は「プロスキュネーシス、ラトレイア、レイトゥールギア」の三つがある。「プロスキュネーシス」は「足元にひれ伏す、頭をさげて拝む」という意味で、そこから「礼拝する」と理解された。「ラトレイア」は「賃金を支給された状態、仕えること」を意味し、それが「神に仕える・礼拝」と理解された。「レイトゥールギア」は「リタジー(典礼、聖礼典)」の語源で、ギリシャのポリスでは「奉仕活動」、エルサレム神殿では「神殿礼拝」を意味する言葉として用いられた。礼拝は神に「ひれ伏す」こと、その「神に仕える」こと、それは同時に地域共同体を建ち上げるために「奉仕活動をする」ことと受け取られた。

新約聖書の礼拝では、神の啓示の出来事に対する人間の応答で、礼拝のイニシャティブは神にある。神の出来事が人間の言葉を通して証しされ、それに対して霊的に応答することが求められている。その応答は「マルテューリオン(証し)コイノーニア(交わり)ディアコニア(奉仕)」の三つがある。「マルテューリオン(証し)」は「目撃、証言、証拠」を意味し、二世紀以降は「殉教」も意味し、宣教の言葉である説教とその応答の信仰告白と結びついている。

「コイノーニア(交わり)」は「分かち合うこと」が語源であり、礼拝では「洗礼、聖餐」に深く関わり、主イエスの十字架と復活と交わることを基本としている。もちろん、兄弟・姉妹の間での愛を支える交わりも意味している。「ディアコニア(奉仕)」は「食卓で給仕すること」が原義で、ここから「務め、任務」という意味が派生してくる。パウロが命を賭してエルサレム教会の窮状を支えた募金活動などは、まさに「ディアコニア(奉仕)」である。

 神が主イエスにおいて啓示された福音を信仰を持って受け止め、力強く証しする。このダイナミックな応答が霊的な生きた礼拝である。