牧師室より

亡くなられた井上良雄先生を中心に「教団と神学教育」を考えようとする有志の方々が「時の徴」という季刊誌を出していた。井上先生の亡き後も、続いて出され、先日120号が送られてきた。諸問題を神学的に取り組もうとしている「時の徴」の論述に私は多くを学んでいる。

妻の妹の久保礼子牧師は大和市で開拓伝道をしていたが、沖縄で伝道・牧会をしたいと熱心に求め、それが叶えられ現在、那覇中央教会の牧師をしている。夫は藤沢市の職員で、単身で赴任していかれた。久保牧師が「時の徴」120号に「ちゅら礼子通信 沖縄に住んで一年」と題して短い文章を投稿している。赴任して一年目の新鮮な出会いが興味深く記されている。言葉はいささか激しいが、沖縄を的確に捉えていると思うので、その一部を紹介したい。

「沖縄が今も『戦時下状態』にあることは、日本もそうなのだ、否、そうさせていることなのに、そうとは思わない人たち、圧倒的多数の『日本人』がいるので、沖縄は、沖縄戦後64年たった今も抑圧状態に置かれ続けています。『やくざなひも』が、『ひっかけた女』にするように、『飴と鞭』で、『麻薬づけ』にされています。ある人は、沖縄は長年レイプ(輪姦)され続け、トラウマの痛みで声も出せなくなっているというのです。沖縄にいると、その人の言うことがリアリティーをもって私の心に響きます。頭の中で想像するのではなく、その現実を目の当たりにするからです。自分は『アラカン(還暦前後の意)』になるまで、その現実をチラッと見ても見ぬふりをしてきたのです。だから、自分はレイプしている者として、声も出せなくなっている人の前に立っているのだということをわきまえなければならないのです。」

月刊誌「世界」に、元沖縄県知事の大田昌秀氏と起訴休職外務事務官の佐藤優氏が「沖縄は未来をどう生きるか」と題する対談を連載している。6月号は「内地の差別偏見が噴出した沖縄戦」というテーマで悲劇的な差別の実態を挙げている。

沖縄は戦前、戦中、戦後を貫いて差別を受け、今もその状態に変わりはない。大きい者の安全のため小さい者が理不尽な犠牲を負う。「声を出せなくなった沖縄県民」と私たちはどう向き合うことができるのか。