牧師室より

聖書の読み方は多様であっていい。愛読聖句を繰り返し読んで、力づけられる。初めて読んだ聖句に感動を覚える。何のことか分からずにただ困惑する。色々な読み方がある。私は一字一句を追いながら、隅から隅まで読むことに意味があると思っている。「旧約を読む会」で1回の通読に10年のペースで読んできた。3回目のイザヤ書を読んでいるが、聖書は常に新しい発見があって、新鮮である。

隅から隅まで読んでみると、日本基督教団の信仰告白で、聖書は「信仰と生活の誤りなき規範なり」と告白されているが、とんでもないと知らされる聖句に再三出会う。聖書も時代の制約の中で書かれ、編集された書物であることが歴然とする。

聖書を書いた著者の思いと時代背景と編集意図を知りたいと努力をしているが、私の力では限界がある。良く分からない言葉に立ち尽くす。それでも聖書は無限の広がりをもって、しかも、今の時代との接点をもって語りかけてくれる。これが、聖書が時代を超えた「神の言葉」として読み継がれている理由であろう。

イザヤ書66からなる預言書の中では最も大部の書物である。本文の文体から少なくとも3の預言者の言葉が編集されている。1章から39までは(第一)イザヤの預言である。

イザヤは紀元前736年から696年まで40年間に渡って(南)ユダ・エルサレムで活動をした預言者である。彼は貴族出身で、政治の中枢にいて格調高く力ある言葉を語っている。

イザヤはシリア・エフライム戦争、アッシリアによるエルサレムの包囲など、(南)ユダの崩壊の危機を体験し、また(北)イスラエルの滅亡を見ている。弱小国家が戦火に翻弄される中で、時代を超えた真の平和を求めて下記のように語っている。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず もはや戦うことを学ばない。」また、「お前たちは立ち返って 静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」と語っている。しかし、この信仰を持つことができない民の姿から国の滅亡を予感し、少数の「残りの者」への希望にかけていく。イザヤの信仰を学び、現代への語りかけを聞いていきたい。