牧師室より

昨年4月、東京の江東区で一人の女性が殺されて遺棄される事件が起こった。テレビのインタビューに平静に答える男性の姿が放映されていたが、その人が犯人であった。裁判では検察は死刑を求刑していた。今年2月、東京地裁は無期懲役の判決を下した。この裁判では法廷に大型モニターに遺体の写真や残虐なシーンも映し出され、遺族は耐えられず、途中で退廷するという場面があったと報道されていた。裁判員制度が始まることを意識し、傍聴人を裁判員に見立てた「劇場型立証」と言われた。

判決は「被害者が一人の事案で死刑を選択するには、相当強度の悪質性が認められる必要がある」として死刑を回避した。納得できる判決だと思ったが、検察は控訴している。

この「江東事件」に関し、朝日新聞に高校教師の投書が載った。生徒に事件の内容を説明し「無期懲役か死刑か」を問うたところ、7割が死刑を選んだという。そして、教師は「無期懲役」の判決は国民感覚からずれている気がすると結んでいた。どれほど正確に事件を説明したか分からないが、この投書を読んで空恐ろしくなった。

私は「ばんざい訴訟」に原告として15年ほど関わってきた。また統一協会関係の裁判の傍聴にも行ったが、裁判所はなじみ難い。裁判員制度は国民に開かれた裁判にするためと言われていた。しかし、最近の状況は容疑者・被告人の残虐さを煽り、国民を動員させて「重罰化」に向かわせるためではないかと疑っている。欧米の陪審制は「無実の死刑」を避けるため「市民の感覚」を入れるためであったと聞く。日本は全く逆向きに働いているようだ。宗教者は死刑反対論者が多いだろう。彼らが裁判員になった時の戸惑い、苦しみが問題になり、議論され始めている。

被害者に同情する思いは分かる。しかし反面、容疑者を厳しく排除、抹殺して、自分を「正義の味方」に置くことの恐怖を感じる。容疑者が犯罪をなぜ犯したのか、その背景は何かを解明する。そして、罪を自覚させ、生きて償わせることが犯罪抑止になると思う。