牧師室より

「人は一人で生まれ、一人で死んでいく」という。人間は孤独であるという意味であろう。孤独であるから共に生きる人が与えられる時、大きな喜びと生きる勇気が湧いてくる。

朝日歌壇の選者4人のうち、3人が下記の歌を選んでいる。「親不孝通りと言えど親もなく親にもなれずただ立ち尽くす(ホームレス)公田 耕一」。昔、横浜に「親不幸通り」と呼ばれた通りがあったらしい。ホームレスになった公田氏はその通りに立ち尽くしている。親は亡くなっているのであろうか、会うことができない状態なのであろうか、また、親にもなれなかった。孤独な今を歌っている。

「転がった錠剤二人で探した日今はおろおろ一人で探す(広島市)山田ミサ子」。年を取ると誰もが薬を飲まざるを得ない。その薬を落として見失う。夫が生きていた時は、二人で床を這い回って探した。しかし、今はその夫はいない。一人でおろおろしながら探し回る光景が目の前に浮かぶ。

「鍋だけは一人でするもんじゃないと父が小さく笑う寒い日(和泉市)星田 美紀」。寒い日、娘が父親を訪ねたのであろうか。妻を亡くした父親が一人で鍋をつついている。そして、寂しい笑いで「鍋は一人で食うもんじゃない」と妻を思い起こして言う。

「呆(ぼ)けたるもよく食べ喋りし母逝きて焼けば無言の骨となりけり(青梅市)津田 洋行」。陽気だった母親の声をもう聞くことはできない。天に送り、ホッとしているところもあるのかも知れない。津田氏は「小さくも母の遺体は重くして遺骨になれば何と軽きか」とも歌っている。母親との関わりは深かったのであろう。

「あなたよりわたしがさきに死ぬだろう病む妻いえり死なせるものか(浜松市)松井 恵」。涙の出る歌である。愛妻の命を惜しむ思いが直接伝わってくる。共に生きるということはこのようなことである。

川柳「この頃は妻が行く所僕が居る(愛知県)加藤 賢二」には笑ってしまった。子供のように付きまとう夫に妻は辟易しているか、共にいることを喜んでいるか。辟易だろう。