◇牧師室より◇
2008年4月に「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム’90」が行われ、辺見庸氏が「死刑と日常― 闇の声と想像の射程」という講演をされた。これを大幅に修正、補充して「愛と痛み 死刑をめぐって」と題して出版している。
現在、国家だけが戦争と死刑で人を殺す権力を持っている。憲法9条は武力を保持せず、国の交戦権も認めず、戦争による殺人はしないと謳っている。しかし、死刑に関しては国民の大多数が支持している。大きな矛盾と言えよう。辺見氏は、死刑を支持している力は「世間」であると捉えている。世間とは個人のない没個性的な闇のような世界である。
辺見氏は「鵺(ぬえ)のようなファシズム」という言葉をしばしば使っている。鵺とは源頼政が射取ったという伝説上の怪獣で、頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎、声はトラツグミに似ていた。要するに、正体不明の人物や曖昧な態度を「鵺」という言葉で表している。辺見氏は、現在の日本の状況を「世間」という主体のない曖昧な、鵺のようなファシズムと捉えている。
辺見氏は、死刑囚を刑場に誘導し、刑を執行し絶命するまでの十数分間の出来事を克明に、そして想像豊かに描き出している。恐怖に怯えて歩けなくなった人を板に縛り付けて刑場に運ぶこともあるという。死刑囚が最後に立つ鉄板を開くボタンが5つあり、5人の刑務官が同時に押す。刑務官の罪悪感を無くすためである。責任を拡散させ、主体をなくし、誰が押したのか分からないようにする。この死刑のありようは、主体を喪失した「世間」と見事に重なっている。
私は何かの本で、死刑制度に最も強力に反対しているのはボタンを押す係りをしている刑務官であると読んだことがある。私が押したボタンではないと思いつつも、息苦しいことは容易に想像がつく。
主体をあかさない、主体も個人もない。誰も悪意を抱かない。その中で秘めやかに、しかし公然と日常的に死刑が執行されている。これほど深いニヒリズムがあるか、と問いかけている。
また、辺見氏は「愛」の可能性を問うている。愛は主体が確立しているところではじめて起こる。そして、その愛は「不都合なものたち」を愛する時、真実な愛となり得る。反社会的と烙印された者たちを「世間」という闇の声で抹殺するところには「愛」はない。他者の痛みを自らに「痛覚」する深みから死刑を考えている論述に多くを学んだ。