◇牧師室より◇

「週刊 金曜日」の新年号の表紙に「考える」と題して下記のような短い文章が掲載されている。「なぜ人は『考える』ことをしなくなったのか 『考える』時間がない 『考える』必要がない 『考える』のが面倒くさい 『考える』方法がわからない いろいろある。だが、もっとも『考える』べきことは 私たちに『考える』ことをさせないようにしてきた〈力〉についてだ 市民から『考える』ことを奪うのは 忌むべき〈権力〉の常套手段である 09年はまず『考える』ことから始めたい。」

編集長をしている北村肇氏は「編集長後記」で繰り返すように書いている。「いつからか、人はあまり『考える』ことをしなくなった。考えなくてもいいように『誰か』が仕向けたのではないかと疑う。考えるから人間なのに、考えない道具にする。そんな戦略を考え実行に移すのは『権力』だ。彼らの催眠から逃れるためにも、09年は『考えるべきこと』を考えることから始めたい。」

私たち市民は与えられた状況、環境に対して「なぜ」という疑問を持つことなく、当たり前のこととして安易に受け入れ、従順な子羊になってしまっているのではないか。

戦前はメディアを飲み込んだ権力が戦争へ戦争へと国民を駆り立てていった。そして、未曽有の苦しみを味わって敗北した。戦後においては経済復興は当然としても、高度経済成長の中で「金持ちを勝組」とする拝金主義が横行した。今それが、いたるところで破綻し、大きな社会不安を生み出している。「どうして」と考え、考えたことを具体的に主張し社会と主体的に関わる責任がある。権力者に従順な子羊ではなく、めんどうくさい大羊になっていく必要がある。

主イエスは考え、主張し、具体的に行動された。律法学者たちは「神の律法」によって民衆の全てを管理し、従順に従うことを信仰深いとしていた。主イエスは彼らの神の名による人間否定の権力支配に抵抗し、「あなたはあなたであってよい」と個々人の尊厳を保証し、共に生きる喜びへと促した。そして、これを「神の国」として示された。「神の国」の住人になることは「考えない道具」から「考える人間」に回帰することである。