◇牧師室より◇

主イエスは終末の時、全ての民族を集め、人々を右と左に分け裁きを下される。右に置かれた人々に「天地創造の時からお前たちに用意されている国を受け継ぎなさい」と大きな祝福を告げられる。それは、主イエスが飢え、渇き、旅をし、裸や病気であり、また牢にいるなどの困窮にあった時、愛を尽くしてくれたからであると言われる。彼らは、何時あなたにそのようなことをしたでしょうかといぶかる。主イエスは「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と答えられた。

左に置かれた人々には「わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」と厳しい宣告をされる。理由は「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」と言われる。

マタイ福音書1814節に「これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」とある。また、721節には「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が天の国に入るわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである」とある。

最も小さい者の一人に愛を尽くすことが神の御心で、その御心を行う者だけが天の国に迎えられると論旨は一貫している。しかし、最も小さい者への「行い」によって、右と左に分けられるならば、私たちは困窮者を見ても素知らぬ顔で通り過ぎているから、マザー・テレサ以外、皆左に置かれてしまう。「行い」によって裁かれるとしたら、誰も天の国には入れないであろう。右と左に分けられる裁きのたとえは最も小さい者への愛を諭した言葉ではないか。

「行い」においては全く欠けているが、愛の神は全てを赦し、私たち全員を右に置いてくださると私は確信している。聖書の神は、エジプトの奴隷として苦しみうめく者を救い出してくださった神である。その神の子イエス・キリストは「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」と語られ、最も小さい者への愛を生き、そして敵対する罪人のために十字架で死なれた。最も小さな者への愛に生きようとする者は、今ここで愛の神と共にある祝福に与るのである。