◇牧師室より◇
ラテンアメリカ・キリスト教ネット主催の聖書研修会に出席してきた。開会、閉会礼拝を除き、三つのテーマがあった。一つ目は、最近ブラジル研修旅行をされた方々の報告である。解放の神学を担っている神父が、小学校教師の語った「私はとるに足りない者です。しかし、かけがえのない者です」という言葉に支えられていると話したという。解放の神学というと勇ましい神学のような印象を与えるが、担っている人々は平凡な日常の中で闘っているのである。
二つ目は、創世記1章から11章までの学習であった。三回に分け、長時間の聖書講義がなされ、それに基づいて自由な議論を積み重ねた。聖書は歴史の具体的状況の中で書かれた書物である。書かれた状況を探っていく時、著者たちの真意を読み解くことができるという視点での講義であった。罪と裁きと赦しが繰り返され、神の前では人間は人間を支配することはできないし、ゆるされていない。多様性の受容こそが神の祝福に与るという結論であった。教義的・信条的でなく、歴史的・批判的に読むことの大切さを学んだ。
三つ目は、教団は未受洗者を聖餐に与らせた牧師の「退任勧告」問題でゆれているが、ガラテヤ書を読みながら、起こっている問題を聖書から捉え直してみようという試みであった。新共同訳は「律法によってではなく、イエス・キリストへの信仰によって義とされる」と訳している。この訳では、信仰が救いに与るための条件(新たな律法)となる。そこでは信じない者は切り捨てられ、排除されていく。様々な訳があるが、「律法によってではなく、イエス・キリストの信実によって義とされる」と訳すのが正しいのではないかと指摘された。不信仰な者をも義とするイエス・キリストの信実を信じることが私たちの信仰である。キリストの福音は「隣人を自分のように愛しなさい」という共にある自由へと召し出すのである。