◇牧師室より◇

「敬老の日 合同礼拝」で75以上の方々に敬老を表し、神さまからの祝福と長寿を祈る礼拝を捧げた。午後の「敬老の会」は百人もの人が出席し、大賑わいであった。アンケートで、好きな花や歌、また健康管理や出身地などを聞かせていただき、なるほどと人柄が分かって面白かった。素敵なピアノ演奏とまろやかな声の独唱があり、本当に楽しかった。年々、敬老される方々は増えていくが、嬉しいことである。

9月の初め、4年毎に持たれる神学校のクラス会が横浜の「海岸教会」で行われた。中途退学する人もいたが、私たちのクラスの卒業生は37名であった。その内、4名が召天された。33名中、半数の16名が集まった。最年長は74歳、最年少は65歳、卒業して41年経つから、皆それなりに年を重ねている。既に隠退した人もいる、病気で出席できない人もいる、また、何らかの病を抱えている人もいる。4名の召天者を記念する開会礼拝で説教した人は「最初の者にして最後の者である方に召し出され、支えられ、用いられてきた」と話された。全くその通りで、牧師には成功した牧師や、失敗した牧師などはない。ただ、憐れみによって福音宣教の業に与ってきたとしか言いようがない。

40年以上も牧師をしてきた仲間たちは皆、淡々と自分を表していた。そして、病む者への深い同情を寄せていた。4年後、大阪で持たれるクラス会に、生きて再会しようと言って別れた。現役の牧師たちから、最後の奉仕に励みたいという思いが伝わってきた。私も後何年、牧師でいられるか分からないが、悔いのない奉仕をしたいと願う。

私自身は、なぜと問い続ける心を持って、精神的には若いつもりでいるが、頭と体の衰えは確実である。まず、人と本の名前が出てこない、読書量と読書力が減退している。体力には少しばかり自信があったが、それも当てにならなくなり、時々休憩が必要になった。

先日、新宿駅で電車に乗った時、妻の席はあったが、私は立っていた。すると、若い女性から「どうぞ」と席を譲られ、いささかショックであったが、「ありがとう」と言って座らせてもらった。若ぶらず、年寄りぶらず、与えられている今を感謝し、あるがままの自分を受け入れ、表していこうと思う。