牧師室より

私はバプテスマのヨハネのことを思うと熱くなる。ヨハネはエルサレム神殿の祭司ザカリアとその妻エリサベトの一人息子として誕生した。祭司になるべく宗教教育を受けたであろう。ところが、成人したヨハネは腐敗したエルサレム神殿を捨てて、荒れ野に立った。荒れ野はイスラエルの民が出エジプトした後、40年間 放浪し神信仰の何であるかを示された原点である。ヨハネは、この荒れ野で旧約時代の預言者のいでたちで、徹底した禁欲を貫きながら、悔い改めてバプテスマ(洗礼)を受けよ、今ここで初々しく神を信ぜよと激しく語った。ヨハネの身を捨てた真実な説教に感動して、人々は大挙して洗礼を受けた。人々の心を神に向けさせ、メシア・キリストの出現の道備えをした。そして、イエスもヨハネから洗礼を受けた。その時、天が裂けて聖霊が降り「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声を聞いた。ヨハネはイエスをメシア・キリストとして「指さし」信じ、従うように証した。ヨハネの信仰は自分を捨て、真っ直ぐに神のみに向かっていた。

そのヨハネは領主ヘロデの不義な結婚に抗議した。怒ったヘロデはヨハネを投獄したが、ヨハネの真実を恐れ殺せないでいた。ところが、ヘロデの誕生祝いの宴席で、妻になったヘロディアの連れ子の踊りを喜び、その褒美としてヨハネの首を与えることになった。ヨハネは獄中で斬首されて殉教した。領主に対してさえ妥協しない誠実さは人々に深い感銘を与えた。

ヨハネ福音書3章は、ヨハネとイエスの関係について記している。ヨハネの洗礼運動に続いて、イエスも洗礼運動を始めた。すると、ヨハネの弟子たちの多くがイエスの方に惹かれていった。心配した弟子が「ヨハネ先生の洗礼運動が衰退しています。何とかしなければなりません」と忠告した。それに対し、ヨハネは「あの方は(イエスは神の子であるから)栄え、わたしは(しょせん、人間であるから)衰えねばならない」と答えた。ヨハネは自分を求めない、イエスが崇められることを喜ぶ、真に砕かれた信仰を全うした。 

ヨハネ福音書3章の記述は歴史的事実ではない。ヨハネが殉教して70年が経っても、人々はヨハネへの熱い思いを燃やし続けていた。それに対し、ヨハネは人であり、イエスは神であることを諭すために創作、編集した記述である。

どんなに素晴らしい人でも、どんなに立派に作りあげたものでも、地上のものはいずれ衰え、消えていく。主イエスの栄えを求め、現すことが真の信仰であると告げている。