牧師室より

旧約を読む会は諸書(文学)に入り、ヨブ記を読んでいる。ヨブの信仰を試すことを許されたサタンは、ヨブの全ての財産と十人の子供を一挙に奪う。更に、全身に腫れ物ができて、ゴミ捨て場に座り、陶器の破片で体中をかきむしる。訪ねてきた三人の友達はあまりの惨たらしさに言葉を失う。

 ここからヨブ記の本論が始まる。三人の友達はヨブの罪が災いをもたらしたのだから、悔い改めて神に立ち帰れと正統神学の「因果応報説」を繰り返す。ヨブはあまりに激しい痛みの中で自らの生を呪いながら、友達の心ない言葉に怒り、神の不当性を訴える。

 その中でヨブは下記のような望みを語る。「わたしは知っている わたしを贖う方は生きておられ ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも この身をもって わたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。」

岩波訳は下記の通りである。「だが、私は知っている、私を贖う者は生きたもう、彼は後の日に塵の上にたつのだと。わが皮膚が引き裂かれた後に、わが肉なしに、私は神を見るであろう。私は彼を味方として見るであろう、わが眼(まなこ)は他人でない者として彼を認めるであろう、わが肝(むらと)はわが内で慕い焦れる。」肝(むらと)は肝臓のことで、感情や良心を司る心の意味を加えた古語だそうである。

この聖句は苦悩のドン底から叫ばれた最も深い願望・祈りである。ヨブは体がくずおれていく中で、「私を贖う者」を信じている。皮膚が引き裂かれ肉は消滅するが、贖われて自分の目で、神を直接見る。このことを腹の底から焦がれている。

贖罪信仰は新約聖書の核となる信仰であるが、旧約聖書にいけにえの動物の血を捧げる贖い信仰がある。それは、苦悩が最も深まったところで生み出された必然の信仰であろう。私は葬儀の始めに、主イエスに贖われ神を直接見てくださいと祈りを込めて、この聖句を必ず読んでいる。