牧師室より

私たちの日本基督教団は1941年(昭和16年)に「宗教団体法」の下でプロテスタント三十数派が合同して誕生した。政府が戦争を遂行する上で宗教団体を円滑に管理、支配するための政策に従ったのである。この教会合同は政府の強力な強制によるものではなく、むしろ教会の方から政府に擦り寄っていったようである。急いで合同したため、合同した教派の数もはっきりしていない。何より、誕生した教団は聖書が求める「神信仰」より「皇国史観」を前面に出して、政府の戦争政策に全面的に協力する姿勢を取っている。

ノンフィクション作家の吉野孝雄氏が「文学報国会の時代」を著している。「日本文学報国会」は1942年(昭和17年)に、文学者の総力を結集して、天皇制国家の伝統と理想を表現する日本文学を確立し、天皇制の文化を文学によって世に示すことを目的にしてできた団体である。当時の文学者の三千名以上もの人が加わった一大組織であった。「愛国百人一首」を募集し、「国民座右銘」を選定し、講演旅行に全国を巡っている。天皇賛美と聖戦鼓舞のため、精力的に活動している。私たちがよく知っている文学者たちの発言と振る舞いが描かれている。もちろん「日本文学報国会」に不快感を持っている人もいたが、彼らは大っぴらに発言できず、沈黙が精一杯の抵抗であった。「蟹工船」の著者・小林多喜二が拷問死させられ、国家に楯突くことなどできるはずもなかった。

吉野氏が巻末に書いている言葉は印象的で、正鵠を得ていると思う。「一部のものにその責任をなすりつけて、あとのものは何もしなかったような顔をして、戦争責任を日本人自身の手で追及することもなく、うやむやに蓋をしてしまったところに、太平洋戦争後の日本社会の抱えるさまざまな問題点の根源があるといえるのではなかろうか。」

教会も文学者も権力に擦り寄り、本来的な使命を失った。暴走する権力は巨大な渦に周りの全てを飲み込む恐ろしいものであることを改めて考えさせられた。

日本在住の中国人監督が撮影したドキュメンタリー映画「靖国」の上映を中止した映画館がある。日教組の集会に会場を貸さなかった有名ホテルもあった。権力に擦り寄り、また暴力を恐れて「自由」を放棄した戦前のような状況が起こっているのではないか。自由な表現が封じられることほど怖いことはない。