牧師室より

宗教には祭儀と言葉の両面がある。ユダヤ教の場合、祭儀は神殿でサドカイ派の祭司たちが司った。言葉は律法を学び、教えるファリサイ派が担った。紀元70にローマ軍によってエルサレムが陥落し、イスラエルが消滅してから、祭儀を司った祭司たちは消えていった。言葉に固執した宗教者が歴史を超えてユダヤ教を伝承していった。

主イエスは言葉に命を与えた。祭儀・儀式にはほとんど関心を寄せていない。プロテスタント教会は聖礼典を洗礼式と聖餐式の二つにした。私は二つの聖礼典を祭儀ではなく、キリストに結びつく出来事、また結婚式・葬式も儀式ではなく、人生における出来事と考えて司式している。

キリスト教は、主イエスに倣い言葉に命を与える宗教として歴史を刻んできた。私は言葉を大切にしたいと思ってきた。

最近、言葉に偽りがあまりに多い。「国際貢献」は憲法違反をして、自衛隊の海外派遣を正当化する言葉になっているのではないか。「〜自立支援法」は困窮者に支援金を出さず、できない自立を自己責任において要請する法に見えてしまう。食品の偽装表示に至っては、報道されない日がないほど、数限りない。言葉と実態が食い違い、言葉が信じられなくなっている。それはそのまま精神の荒廃に繋がっている。

この問題は他人事ではなく、私たち自身も言葉に対して無感覚になっていると思わされる。語った言葉は消えていくが、当然、責任が伴う。書いた言葉は残っていくので、大きな広がりと影響を与える。私たちは文章を書いて表し、またメールをやり取りし、ホームページやブログで発言しているが、無責任な批難、批判によって、実は自分自身を卑しめている文章に出会うことがある。自分で書いた文章を見て、他者と結び合う愛と真実を求めているかどうかを吟味する必要があろう。信仰は言葉に命を注ぎ込むことである。