牧師室より

牧師職のことが問われる時、まず「召命」ということが問題になる。神の御業のための「召し出し」である。聖書には「召命」を受けた時の対応の姿が多様に記されている。モーセは出エジプトの使命を告げられた時、「ああ主よ、どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください」と固辞している。イザヤは「誰を遣わすべきか」という御声を聞いた時、「ここにわたしがおります。わたしを遣わしてください」と答えている。エレミヤは「わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」としり込みしている。ヨナに至っては、逆方向に向かって船で逃亡している。彼らは神の「召命」の声を聞いて、それぞれの応答をしている。そして、固辞した者も逃げ出した者も御業のために強引に立たせられている。

今日の牧師たちは信仰において「召命」に与ったと信じて立とうとしている。教団の場合、牧師の「資格」を得るためには、6年から9年かかる。この間、必要な勉強をすれば、牧師に「なる」ことはできる。しかし、牧師で「ある」ことは容易なことではない。牧師で「ある」ことを求めて「召命」の確かさを問い続けるのである。

ウィリアム・ウィリモンの「牧師 その神学と実践」が翻訳、出版され、牧師論が多様に展開されている。私が卒業論文で扱ったPT・フォーサイスの言葉が引用されていて懐かしかった。「理想的な聖職者であるためには、少なくとも三つのことが求められる。まず預言者であること、次に牧会者であること、そしてそれと並んで祭司であることである。(それと反対に)聖職者がそうであってはならないのは王となることである。」この言葉は20世紀初頭、イギリスの古き良き時代の教会を反映しているように思える。

この本の帯紙に関田寛雄牧師は「私は牧会における『成功』なるものを信じない」と書き、ウィリモンは「牧師が立ち向かうべきチャレンジとは、この世的な尺度に従って確実に成功する手段を発見することではなく、むしろ、正しい理由のゆえに、正しい方法で、失敗することである」と書いている。「召命」は失敗と挫折の中で「それでも用いてくださいますか」と願うことであろう。