牧師室より

日本基督教団の「常議員会」は教会における「役員会」のような働きをする大切な会議である。その常議員会は「北村慈郎教師に対し教師退任勧告を行う件」を30名中16名の賛成多数で可決した。

北村牧師の伝道・牧会する紅葉坂教会は「聖餐式」について数年かけて学びの時を持ち、神学的にも宣教論的にも未受洗者への陪餐が正しいと教会全体で決議し、実行している。雑誌「福音と世界」でも公にされていた。今回、常議員会の懇談会で発題する機会を得、北村牧師は率直に報告した。それが突然、教憲・教規違反として退任勧告にまでなった。

この議案に関し、全国から、また他教派からも取り下げを求める多くの要望書が出ていたが、強引に多数決で押し切った。常議員会は教師退任を決議する機関ではなく、また決議の法的拘束力も持たない。紅葉坂教会の総会決議を無視して、北村牧師個人への退任勧告は「乱心」としか思えない。彼らは排除することに熱心で、洗礼を受けた者だけが聖餐に与ることができる規則は教会の生命線であるという。

カール・バルトは、第1次、第2次世界大戦によって瓦礫と化したヨーロッパ社会に、人間の罪の深淵を見た。そこから、神の絶対的な恩寵を説く神学を展開し、それは、未受洗者への陪餐を受け入れる主張に繋がった。釜ヶ崎で司牧している本多哲郎神父は、人間社会の深い闇を見た。その時、化体説を説くカトリックでありながら、未受洗者への陪餐を当然とし、実行している。

教団において、23割の教会が既に未受洗者への陪餐を執行していると聞く。教団執行部が心配するような問題は何も起こっていない。教会は規則を尊重すべきである。人を傷つける規則違反は決して認められることではない。しかし、教会、殊にプロテスタント教会は誰も傷つけずに、教会エゴイズムの規則を破棄することにおいて福音の内実に肉薄してきた。主イエスは愛において律法を超えた。マルチン・ルターは宣教を広げるため教会法を超えていった。

岸本羊一牧師は「礼拝の神学」の中で「あなたは洗礼を受けていないから聖餐にあずかることはできませんということは、私は牧師として、福音に仕える者として、とうてい口にすることはできない」と書いている。私は全く同感である。

教団では「聖餐式」に対し考え方が多様になっている。異なる意見を力で封じ込め、排除するのでなく、多様性を認め、対話を深め、福音に生きるあり方を模索することが合同教会の豊かさを保持する。それは、主イエスの赦しは誰に向かって宣言されたものなのかを福音的に問うことである。この問いに私たちの教会も対話することが求められている。