牧師室より

今回の病気で、都合4週間の入院生活をした。入院中、詩人の八木重吉全集をまとめて読む機会を得た。また「経済小説」というジャンルを確立した城山三郎氏の作品を何冊か読んだ。城山氏の描く人物像は興味津々であった。

人は誰でも時代の流れの中に身を置いて、その生を営む。しかし、時代に飲み込まれず、流れに抗って人間であることを強烈に求めた気骨ある人々はいる。城山氏はそのような「骨太」の人物を描き出し、現代の我々に「人間」のあり方を問いかけている。

私は、経済評論家の内橋克人氏の人間への「優しさ」が好きで、励まされる。内橋氏は城山氏の亡き後も彼について熱く語っている。お二人は、2002年に「『人間復興』の経済を目指して」と題する対談集を出している。今回、もう一度読み直してみた。グローバライゼーションとマネー資本主義が世界を席捲する中で、人間を排除する非情な経済が横行している。お二人は、敗者復活が可能な人間性回復の経済のあり方を模索しながらの対談を進めている。

その中で、城山氏は下記のように語っている。「志を持って生きていても、企業の場合は結果論が付いて回りますから、それに耐えなければいけない。志が何であるかということにもよりますが、何しろ、私心がなければ大丈夫です。私心があると、見えるものが見えなくなってしまう。そして、過度に自分を出そうとしたりする。とにかく、自分に少しでもいやしいところがないか絶えず問いかけて、私心がないようにしなくてはだめですね」。また「私心を持たないということは、志を保つことです。志というのはみんなのためのあるべき姿を求めるということ。自分はどうなってもいいということじゃないと、提案することに迫力が出てこない」とも語っている。城山氏の描く人物はこれに尽きるであろう。

私は下記のように考えている。人は生きる悲しみ、即ち自分の罪深さを知った時、これを無限に赦してくださる神の絶対的恩寵を本当にありがたく受けとめられる。その時、初めて人は「生きる」ということを自らのものにすることができる。主イエスは「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言われた。自分を捨てる、私心を持たないことは容易なことではない。しかし、この私が赦されていると実感する時、事柄が見えてきて、志を持つ新しい自分が生まれてくるのではないか。