牧師室より

今日の11日(日)から17日(土)までを「障害者週間」と定めている。障害の「障」は「さまたげ」で、「害」は「さわり、わざわい」で、障害という字はマイナスイメージが強い。そこで「障碍」と書く人がいる。「碍」も「さまたげる」という意味で、さほどの違いはない。最近は「障がい」と書くことが多くなっているのではないか。ここには「障がい」は「個性」であって、決してマイナスではないという主張がある。

身体的であれ精神的であれ、障がいを持つことは本人はもとより、家族も大きな負担を負う。これを「個性」と言い切るにはどれほどの努力の末だろうかと思う。

言えることは、障がいを持つ人のパーセンテイジは確実に高くなっていき、人は老いていけば、皆障がい者になるということである。障がい者への支援は社会的な責任である。

ところが、財政的理由によって、弱い立場の人々を切り捨てる方針が至るところで見られる。「障害者自立支援法」という法律ができた。障がい者のための「共同作業所」を沢山建てて、そこに仕事を回すような法律であろうと期待した。とんでもない期待で、事実は障がい者への援助を減らし、作業所への支援も削減し、障がい者が自分で自立していけという法律である。この法律によって、彼らの行動、生活領域は著しく狭められている。介護関係で「ノーマライゼイション」という言葉が使われている。「地域で自立への営み」という意味であろう。ノーマライゼイションできないから介護を求めているのに、このきれいな言葉によって、福祉予算が削られ、受けたい介護が受けられなくなっている。更に、抵抗できない弱い子供たちが犠牲になる悲劇も続発している。社会的な弱者はますます苦境に追い込まれ、強い立場にある者たちは、その力と立場を利用して欲望を追い求め、また、不正な利益をむさぼっている。

農民預言者アモスは、庶民の目線から「正義を洪水のように 恵みの業を大河のように 尽きることなく流れさせよ」と語った。権力者と商人たちが豊かさに酔いしれ、貧しい人々を足蹴にする状況に対する怒りの言葉である。私たちは「ぼやき」からアモスのような「怒り」を表すべきではないか。