牧師室より

キリスト教カウンセリングセンター相談所長の賀来周一牧師をお迎えして特別伝道集会を持った。講演会は「安心と勇気をもって生きるために」と題して話された。「存在」は「いる」ことであり、「行為」は「する」ことである。科学の知を追い求めて、役立つことを「する」ことを価値あることとしてきた。そこでは、役立たないことは「穀潰し」とみなされる。「役立つ」か「穀潰し」かではなく、「あるがまま」の自分を承認・肯定される時、人は本当の安心を得る。成熟した人は、この是認の声を聞き、安心して前進する勇気を持つ。「存在・いる」ことの意味は科学では解明できない。人間を超えた世界を信じることによって、人間存在の真実を知ることができる。この世に一人しかいない自分の価値に気付き、他者を有意義な存在として受け入れる。お互いに肯定的なストロークで確認し合って、愛と赦しの関係を作っていく。そして、人間を超えた神にゆだねるスピリチュアルな世界を持つことが大切であると力説された。

礼拝説教は「信仰によって、いやされるとは」と題して話された。今の時代、巷では「いやし」をひたすら求めている。「いやし」はギリシャ語では「仕える・奉仕する」ことであり、「奉仕」は「サーヴィス」と言い、「神礼拝」を意味している。神は礼拝する者に「仕え」、汚れた足を洗ってくださる。礼拝こそが真の「いやし」の場である。

私たちは「健康で、幸せになる」ことを「いやされた」と言う。しかし、聖書の「いやし」はそうではなく、目に見える「いやし」は得られず、絶望の中にあろうとも、神の恵みは「今、ここに」あると受け入れることである。パウロは「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」という神の言葉を聞いた。だから「わたしは弱い時にこそ強い」と告白している。神は弱さ、痛みのただ中で働く方として私たちに臨んでくださっている。望む「いやし」は与えられなくても、主イエスによって罪赦され、生と死を超えた永遠に繋がる者としてくださっている。神に全てをゆだねる「礼拝」が真の「いやし」であると語られた。

講演と説教を通して、神を求める教会生活をしていることの幸いを心から嬉しく思った。