牧師室より

キリスト新聞の論壇に、カトリックの森一弘司教が「『教会』という呼称見直すべきでは」と題して「教会」と「教義」の二点について書いている。論旨に賛成なので、私見を交えて、紹介したい。

イエスをキリスト(救い主)と信じる信仰共同体を日本では「教会」と言ってきた。「教会」という言葉には「教える人」と「教えられる人」がいて、そこでは「教え」を中心に形成される共同体のような響きがある。しかし、ギリシャ語の聖書では「エクレシア」と言い、「呼び集められた者たちの集会」という意味である。日本では「よりあいやど」や「集会」と訳された時代があった。18世紀初頭の中国語訳聖書で「教会」と訳された。明治になって結成された翻訳委員会で「教会」と訳され、それが定着したらしい。私は「共会」の訳語のほうが的確であると思っている。

主イエスに付き従った人々は「罪人」と言われ、生活の場を奪われていた人々であった。彼らは「教え」に惹かれたのではなく、主イエスの存在全体から注ぎ出される「愛」に生きる喜びを見出していったのである。まさに、呼び出されて「喜びと苦しみ」を共有する生き生きとした群れであった。

教会が成長し制度を整えていった時、「教え」が「教義」となり、その「教義」は哲学的・神学的な論理をもって強力に組み立てられていった。それはキリスト教を明らかにし、宣教する大きな力になった。反面、正統と異端を激しく分離する対立を生んだ。そこでは、主イエスの全てを包み込む優しい「愛」は見失われ、猛々しい議論が展開された。正統と豪語したものが真理を見落とし、異端として排斥されたものの中に真理が見出された事例は教会史の中でしばしば見られる。「教義」は歴史的・文化的・政治的な背景があり、それはとりもなおさず、相対的なものであるということである。

森司教は下記のように書いている。「『教義』がどうであれ、どの教団・教派の人々もおなじように共有するものは、キリストこそ人間の究極の救いになるという信である。『教義』へのこだわりは、排除の論理を育てるだけである。『共有点』を強調すれば、一致への道が開かれる。」

教団執行部の中に「未受洗者への陪餐」を問答無用に排斥する強硬姿勢が見られ、大きな危惧を抱いている。主イエスに呼び集められ、生きる力と希望を与えられ、「共にある」ことこそが「信」ではないか。