牧師室より

役員会で、教区総会の状況について「牧師室より」に書いてほしいという要望があった。神奈川教区総会は一時期と比べ、粛々と議事が運ばれている。問題提起者と言われる人々の発言が著しく減少したからである。

623に行われた総会で、関田寛雄牧師が「『第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白』(以下−「戦責告白」)40周年を覚える決議」という議案を提出した。趣旨説明があり、質疑応答があった。そして、採決では圧倒的多数で承認された。この決議は、現在の日本基督教団にとって非常に意味深い。それは「戦責告白」をどう受け止めるかが、今後の教団のあり方を決定すると思うからである。

1967に、当時の教団議長・鈴木正久牧師の名で「戦責告白」が出された。鈴木牧師を招き「戦責告白」に関し討論会が頻繁に持たれた。戦争中、苦労しながら牧師をされた牧師たちから激しい反対意見が出された。それは、「戦責告白」によって、自分たちの働きが無にされ、否定されると思われたからである。その牧師たちの戦争中の苦労を理解できないわけではない。

ところが最近、戦争を体験していない牧師・信徒の中から「戦責告白」を否定的に考える人々が現れている。現在の教団議長・山北宣久牧師は「荒野の40年」という声明を出した。「荒れ野の40年」とはもちろん、イスラエルの民がモーセに率いられて荒れ野40年間、放浪した苦難の年月を指す。ドイツのヴァイツゼッカー大統領の「荒れ野の40年」と題する戦後40年を総括した演説はあまりに有名である。心を打たれるドイツの真摯な罪責告白であった。

山北牧師は「戦責告白」が出されてから40年の教団の歩みを「荒野の40年」と語り、12項目をあげて、40年間を否定的に捉えている。確かに「戦責告白」後、教団は混乱した。諸々の問題を提起した若者が激しく教団のあり方を問うた。そのために、会議制が保たれなかった事実もある。しかし半面、不問にされてきた教団の諸問題を公にし、また問答無用の権威主義は壊され、自由闊達な議論ができるようになった。

 山北牧師は、教団の混乱の原因は「戦責告白」にあると捉えている。山北牧師を支持する牧師・信徒は「信仰告白の堅持と教憲教規の遵守」を紋切り型にとなえ、伝道を推進し、いわゆる「正常化」を訴えている。彼らは、教会の第一義は信仰・伝道であり、社会問題は第二義であるという信仰と社会を二元論で見ている。この論は世を愛して苦しまれた主イエスを見ようとせず、社会的弱者に無関心になる抽象的な信仰に逃げ込む論理である。信仰は心や精神だけの問題でなく、世のあり方と直接に関わっている。

「戦責告白」は戦時下の教会が皇国史観に埋没し、他の人々を苦しめる側に立ったことへの罪責告白である。この告白から、時流に流されない主イエスの福音に従って「他者と共にある」信仰が導き出される。総会は「戦責告白」に立って平和を希求し、キリスト告白に生きる教区を形成しようと決議した。教会は福音の質を問い、それを生きる群れである。関田牧師の誠実な福音的主張が総会を動かしたと私は受け止めている。