牧師室より

沖縄教区報に掲載された「沖縄にある望ましい将来教会の在り方」が送られてきた。沖縄の厳しい歴史と現状、そしてそこにある教会の使命が力強く述べられているので、その一部を転載したい。

「薩摩藩に侵略され(1609)、日本国家に『琉球処分』され(1879)、植民地化されて、天皇を頂点とする国家体制への同化を強制された。先住民族としての古来の土地や文化や言語も奪われた。さらに軍国主義への服従を強制されて、被害者・加害者の苦悩の道を歩かされ、その果てに、アジア・太平洋戦争においては、天皇制国体と『本土』防衛のために時間かせぎの捨て石とされ、死者20万余の地上戦を闘わされた。戦後は、敗戦国日本の独立回復の代償として過酷な米軍支配下に提供遺棄され、1972年には日米軍事態勢下の最重要拠点の役目を負わされる形で『日本復帰』をさせられた。その結果、軍事基地との共存状態におかれた構造的差別の状況は今に至っている。私たちはそのような歴史・現実認識の中から、どれだけ醒めた自己認識を持ち得ているのだろうか。『ムヌクイスドゥ ワガウスー(食べ物を保証してくれるものこそが私の主人)』との事大主義に汚染されてはいないか。その結果自尊心、自律心、自己主張の弱い民として、特に『本土』からの圧力、影響力に翻弄されて来ているのではないか。主キリストにあって自らを尊び、自律的であるべきキリスト教会も、その体制に飲み込まれ、自らの教会も誇りをもって維持し通すことが出来ずに来たのではないか。」

「神は『人と地のすべて』を創造され、祝福された。国家は神の創造された『人』の平和な生活に仕えるために権威を与えられた。国家には人の生に仕える公僕としての役割がある。しかし、国家は、現に、国益を正義とし、国益に沿うものは利用し、沿わないものを排除し、社会的に小さく弱い者を生み出している。そのような中で、教会は、国家を相対化し、この世のすべてのものから自由になり、国家、国民の枠を超えて『隣人を愛する』務めを果たすべきである。沖縄の教会は、日本『国』や沖縄『県』という国家体制から自由になり、沖縄という人間社会をフィールドとし、沖縄の歴史ならびに現実を踏まえながら、『沖縄』という『人間社会』を視野に入れ、教会としての役割を神の前で果たし、誰も差別されることも、することもなく、すべての人が平和に生きることができるように、祈りかつ行動すべきである。」