牧師室より

新聞の投書欄に「『頑張れ』とはしんどい言葉」という投書があった。彼は立っているのもつらいほど強い倦怠感に悩まされ、精神状態は極限まで追いつめられていた。その時、周りの人から多くの励ましの言葉をかけられたが、「頑張れ」という言葉に怒りがこみ上げてきたと言う。

私たちは気軽に「頑張れ」と言って、励ましたつもりでいる。その言葉が励ましになることもある。スポーツ選手などは後押しされるだろう。しかし、投書者のように怒りがこみ上げてくるような響きに聞こえるというのも、よく分かる。人は誰でも「あるべき自分」でありたいと望んでいる。ところが、その「あるべき自分」と「今ある自分」との乖離に悩むのである。投書者は「今ある自分」は立てない極限状態にある。そこへ「あるべきあなた」になれと言われたら、とても耐えられない。安易な励ましは傷つけることがある。

私にとっての福音はイエス・キリストの十字架によって「今ある自分」を神はそのままそっくり受け入れてくださっているという安心と喜びである。こんな私でも神は「よし」としてくださる。この神の絶対的な受容を信じることによって、どんなに破れていようとも「今ある自分」を安んじて受け入れることができる。

自己受容できずに、不安と苛立ちの多い今の時代、キリストの福音は何よりの安心と喜びではないか。