牧師室より

ルカ福音書は、イエス・キリストが故郷・ナザレで語った宣教内容を伝えている。幼い時から通いなれた会堂で、イザヤの巻物を朗読した。そこには「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵の年を告げるためである」と書かれてあった。イエス・キリストは朗読した後、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と語られた。

預言者イザヤは、神が遣わす油注がれたメシア(キリスト)によって、終末的な救いを望む中で語ったのである。イエス・キリストは、その望みは今日、実現したと語られた。

イエス・キリストを知り、信じる者は「解放と回復と自由」を既に与えられていることを承認することであると私は思っている。イエス・キリストによって、この世の価値に「捕らわれ」、縛れていたことから「解放」された。また、見えなかったし、見ようともしなかったが、「視力の回復」を受け、見せていただいた。更に、逃げ道のないほど「圧迫されて」いると思っていたが、神に生かされていることを知って、「自由に」された。イエス・キリストの恵みの現実が私たちの真実であると受け止めることが福音である。

加藤周一氏が「夕陽妄語」で「超楽天主義のすすめ」と題して、諸々の否定的な事例をあげた後、下記のように書いている。「しかし何とかもう少しほがらかに、何が起ころうとも明るく、愉しく、輝かしい未来の話はないものだろうか。条件付き楽天主義でなく、無条件の、絶対的な、いつどこでもの超楽天主義。私はそういうものの見方、希望の常に実現する未来を空想した。」

確かに、時代の暗さは増している。しかし、私たちは、イエス・キリストによって告知された「解放と回復と自由」を得ているという神の恵みこそが、私たちの真の現実であると信じる。また、そう信じるから今を喜び、未来に向かって歩める。この恵みは安価な自己肯定ではなく、神からの肯定であるから、常に自己変革を伴っている。イエス・キリストによって与えられた大いなる楽観が教会の命であると思っている。